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着地点での記憶の行方

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 実際に、バブルというものが発生した時点で、弾けることは確定しているので、どこまでであれば、被害が最低限に防げたのか、歴史を知っていても、分かるかどうか、判断が別れることろである。
 そんな昭和六十二年世月のことだった。大学を卒業し、食品会社に入社した男性がいた、彼は、名前を高橋和志といった。何とか就職できたが、大学でも成績がパッとしたわけでもなく、数打った鉄砲の一つが、何とか当たったという程度だった、
 この頃は、まだバブルの時代ではあったが、巨大国営企業が、次々と民営化が決まって、社会全体の自由競争がさらに加速するということもあって、経済的にも転機を迎えていた。理由はハッキリと分からないが、それまで一定数の新卒を採用してきた大企業のいくつかが、この年あたりから、新卒採用をしなくなっていた。それだけ、
「就職戦線に異常あり」
 という情勢になっていた。
 そのおかげで、就活は困難を極め、その数年後に起こる売り手市場を羨ましく感じるほどだったが、意外とこの時代のことは、あまり語られることはない。
 平成五年以降から起こる就職難、いわゆる
「就職氷河期」
 と呼ばれる時代があまりにも壮絶だったため、そして、その数年前の売り手市場がその正反対に、採用する側が優秀な学生を他に取られないようにと、数々の引き留め工作を行っていたのが印象的過ぎて、それ以前の時代が、さほど注目されることはなかった。
 だが、実際にそういう時代はあった。一時期ではあったが、大企業が軒並み採用を見送ったというのはどういうことだったのだろう?
 実際に調べても、この時代のことは載っていない。まるで、黒歴史として、残されていないようだ。
 高橋和志が、就職できたのは、ある意味偶然だったのか、内定が決まっていた学生が他の会社に流れたことで、空いた隙間にうまく潜り込むことができたからなのか、実に偶然とはいえ、就職できたことは、まわりから見ても、奇跡に近い幸運だった。
 その頃の流行語で、
「新人類」
 という言葉が流行ったが、その頃くらいから、新卒の大学生は、甘えが残っている場合が多いと言われた。
 実際に、せっかく就職できたのに、会社で辛いことがあったわけでもない新入社員がいきなり失踪してみたり、急に実家に帰って、出社拒否を起こしてみたりと、まるで学生のような行動に、会社側もどう対処していいのか分からなかった。
 もちろん、簡単に首を斬るわけにもいかず、会社側も困っていた。
 だが、この時代、どの会社にもあることだったが、
「新入社員のそのような不可解な行動が起こった後に、新入社員が失踪してしまう」
 という事件が頻繁していた。
 会社や家族ももちろん、何も分からない、会社側からすると、
「家庭内で何か問題が起こったのでは?」
 と思っているし、家庭からすれば、
「会社で辛い目にあったのではないか」
 という懸念から、警察に相談するにも、それぞれで相談していた。
 そのため、会社側と家庭側のそれぞれから事情を訊くことができないので、余計に警察とすれば、事情が分からない。そのため、行方不明と言って捜索願が出されたとしても、事件性があるかどうかも分からないので、実際に捜査もしていなかった。
 そんな新入社員が全国に徐々に増えていった。増え方が緩やかなので、全体を把握する警察庁としても、これらがすべて単発として見ていないので、社会問題にもならず、マスコミが取り上げることもなかった。
 しかし、実際には起こっていることであって、この時代には、何か表に出ないようなブラックの闇が潜んだ時代だと言ってもいいだろう。
 それこそ、実体のない膨れ上がった経済におけるバブルの時代を象徴しているようではないだろうか。
 このことを社会問題として気にしていたのが、実は高橋和志で、彼のような目立たない男がそれを社会問題として提起したとして、誰が本気になって信じるだろうか?
 彼自身も、
「そんなバカなことはないよな」
 と思いながら、それでも勝手にいろいろ妄想するのだった。
 その中で一番納得のいく考えは、
「歴史のワームホールに落ち込んでしまったのではないか?」
 ということであった。
「ワームホール」
 それは、突如現れる時空の穴というべきもので、その中にタイムトンネルが繋がっているというSF的な発想である。
 ただ、このワームホールというのは、数学的な計算によって考えられたものであり、それによると、
「ワームホールの通過するには、そのトンネル内で、人間の耐えられる空間ではない」
 という考えも存在する。
 高橋は、ワームホールの存在を信じてはいたが、人間が耐えられるものではないという発想に近いこともあって、ワームホールとは決して遭遇してはいけないものだと思っていた。
 そういう意味でも、タイムマシンという時空を超える機械を発明することができたとしても、時空を超えることで、肉体が耐えられるのかという問題と、さらに、
「慣性の法則」
 という考え方が、頭の中でネックになっていた。
 慣性の法則というものにはいくつかのパターンがあるが、一番ポピュラーな発想として、
「電車の中」
 というものがある。
「移動中の電車の中でジャンプした場合にどうなるか?」
 というものだった。
 これは、
「動いている物体は動き続けようとするものだ」
 ということであり、電車の中では人間も電車と同じjスピードで動いているのだ。
 だから、ジャンプしても、電車のスピードに沿った形で移動することになり、着地点も最初と同じ場所になるのだ。
 この考えが果たして、タイムマシンの中で有効に働いているかという疑問がある。
 その一つとして、ハッキリしている懸念は、
「アインシュタインの、相対性理論の考え方」
 である。
 アインシュタインは、
「光の速度を超えるスピードで移動した時、普通のスピードで移動しているものに比べて、時間の経過が遅くなる」
 と、提言している。
 これが、一種のタイムトラベルの概念の始まりになるのかも知れないが、この考え方を整理すれば、昔話の浦島太郎の話も、説明がつくという学者もいる。
 つまり、竜宮城への旅は、実際には宇宙空間へ光の速度を超えて移動したことにより、地上より時間の経過が遅くなり、三日くらいしか経っていないと思っていた時間が、本来の時間に換算すると、七百年近くになっていたという理屈だ。
 今から数百年前に、このような発想が成り立つというのは、どういう考えからなのか分からないが、それから数百年の後に提唱される理論が、日本の昔話に残っている不可思議な話を解明するヒントになろうとは、最初にこの物語を書いた人も、アインシュタインも思ってもいなかったことだろう。
 ただ、世界のどこかに似たような話があって、それを解き明かすためにアインシュタインが物理学の見地から、相対性理論を提唱したのかも知れない。
 やはり、過去に何か人の理解を遥かに超えた事例がなければ、それに対しての解明を考えることもないので、科学の進歩はありえないだろう。
作品名:着地点での記憶の行方 作家名:森本晃次