有双離脱
そういう意味でアダルトビデオや?シネマの世界は、日常にアダルトを組み込んだという設定であり、セックス自体は、普通の日常なので、別に非日常というわけではない。勝手にアダルトを妄想にしてしまうのは、人間の中にある性欲と欲求不満によるバランスを取ろうとすることが妄想に繋がらからであろう。
声フェチの俊介は、もちろん、女性の声に対してのみ、感じるフェチである。
俊介自身、自分の声はずっと低いと思っていた。しかし、中学時代に学内でインタビューを受けた時、校内放送でそのインタビューが流れた時、自分の声を聴いて、
「まるで、風邪でも引いているように籠って聞こえる」
と思ったのだ、
だが、インタビューを受ける前から、女子の間で、
「五月雨君は、声だけはいいもんな」
というウワサがあると耳にしたことがあった。
それを自分で感じている自分の声を好きなのだと思っていたのに、創造よりも二オクターブ近くの高い声に驚愕してしまった。
校内放送で流れている自分の声を聴いて、
「なあ、俺のあの声に違和感ないかい?」
と近くの人に聞くと、
「いや、いつもの声だけど?」
と言われた。
その時初めて、自分で感じる声と他の人が聞いている声とでここまでギャップがあるということに気づいたのだ。
それと同時に
「女性は、あんな声が好きなんだ」
と思ったのだが、自分ではどうしても好きになれない声だった。
何が嫌なのかと言って、声緒のトーンというよりも、声の籠り方は嫌だった。ハーモニーを奏でているのであれば、明らかな声の高さが違っている波長が複数あるのだろうが、自分の声はハーモニーと言っても、声のトーンが皆同じで、その分、籠ったようにしか聞こえないのであった。
声フェチなおかげで、できた友達もいた。その友達との関係は、実は如月は知らない。ただ、その人と友達だった期間は思ったよりも短かった。
期間にすれば、半年もなかっただろうか、自分の声に違和感を感じるようになって少ししてからのことだった。
相手の方から近づいてきた。どうやら、声フェチは声フェチが分かるとでもいうのか、その割には俊介には彼が仲間だと分からなかったのだが、友達になってからも、お互いにどこか見ていたものが違っていたような気がする、
彼の方は、単純に、声フェチの仲間を探していたのではないだろうか。自分が声フェチであることを必要以上に嫌がっていて、それが、余計に声フェチセンサーを鋭くさせていたのかも知れない。
だが、俊介は自分が声フェチだとは思っていたが、仲間がほしいというところまでは行っていなかった。下手に仲間意識を持ってしまうと、知られたくないと思っている人にまで、自分が声フェチであることを恥ずかしいと思っているからだろう。
その思いは二人に共通しているのだろうが、それを表す態度は違っている。それはどれだけ声フェチが自分の性格に入り込んでいるかという割合に比例しているのか、それとも、濃度に比例しているのかのどちらかではないだろうか。
二人は、その割合も濃度も違っていたので、それだけ最初に感じた声フェチの距離が近づいてくると思っていたものが、実は遠ざかっていくことに気づいた時、距離を埋めることはできなくなってしまったのだろう。
二人が声フェチに種類があり、お互いに違う声フェチであることに気づくと、もう友達でいる理由がなくなった気がした。
そもそも、声フェチという共通点がなければ、まったく二人の間に共通点がない状態なので、距離を一度感じてしまうと、修復は難しいのは、最初から分かっていたような気がする。
二人が距離を保つことで、それまで二人が親密だったことに誰も気付かなかったのに、それまでのことがウソのように、距離があることで、二人がそれまで親密だったことが分かったのは皮肉なことだったかも知れない。
そのために、如月との仲がギクシャクし始めたのは、予定外だった。
確かに、如月に声フェチでの友達ができたということを知らせたことはなかった。知らせると、ぎこちなくなるかも知れないと思っていたはずなのに、声フェチの友達と距離ができたことで、如月とぎこちなくなるであろうことは容易に想像がついたはずなのに、どうして、思っていなかったような感覚になったのだろう?
「感覚と現実は違う」
と言われるが、予想することになれば、余計に違いを感じることだろう、
自分にとっての感覚と現実とはもう少し距離が近かったような気がした。だが実際には思ったよりも距離があり、その距離のおかげで、声フェチ同士の関係が見えない距離にいるだろうとタカをくくっていたのかも知れない。
しかし、如月という男はどこか勘の鋭いところがある。
しかも、それはターゲットを俊介に置いた場合のことであって、俊介ともう一人が誰であれ、如月の中には見えるのだ。
きっと、如月は自分の正面に俊介を置いた場合、ちょうど、その延長線上に、見えない誰かを見据える形の視線を見せているようだった。
そのおかげで、俊介を焦点にして先を見ると、ぼやけてではあるが、その先に影のような何かが見えてくる。その時に距離を感じることで、今度はその先にいるボヤけたものに視点を合わせるようになった。
そのため、それまでボケてしか見えなかったものが見えてくることで、全貌が分かるという手法のようだった。
如月は絵心があった。
別に油絵をするわけではないが、デッサンであったり、マンガチックなものを書かせると、結構上手だったりする。
「どこかで習ったのかい?」
と聞くと、
「我流だよ」
と言っていたが、その割に上手だった。
絵心のない俊介にとっては、絵が描ける如月は尊敬できた。一度、如月を見習って自分も何か書いてみようと思ったが、出来上がったものを見ると、
「もう二度と書こうとは思わないな」
というほどの出来栄えだったのだ。
だが、我流でやってきたという如月は、人にモノを教えることが好きなのか、絵のかき方について、いろいろとレクチャーしてくれたものだ。押し付けではないので、結構気楽に聞けたが、その内容は、まるで絵画教室で受けているような内容だったので、気も楽だった。
もちろん、絵の描き方などという本を読んだわけでも、絵画講座などというカルチャースクールにも行ったことはない。ただ、最近、マンガチックなタッチも含めて、絵を描ける人が目立つようになったのを見ると、
「絵が描けるというのもいいな」
と感じるようになった。
最近では、サブカルチャーというのがまた流行っているようで、素人でも気軽に個展が開けるようなスペースが増えてきたような気がする。サブカルチャーの喫茶店が店の一部や影を展示スペースにして、プロではない人の作品を一定期間展示するというものだが、そういうのを見ると、何か羨ましい気がした。