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有双離脱

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 嫉妬に燃えている人は、嫉妬にだけ異常なだけで、他に対しての感情は別に正常であるだろう。それなのに、一旦嫉妬に狂ってしまって自分の意識がどこに向かっているのか分からなくなると、その次に感じるのは、
「なんで、こんなに自分g孤立しているんだろう?」
 という思いである。
 自分には、苛めをしているという意識はない。恋敵を攻撃し、さらに好きになった相手に対しても、恋敵を思う気持ちに勝てないことが分かってくると、自分で自分を抑えられなくなってくる。
 そうなると、異常な精神状態は、苛めをしている理不尽なやつよりも、ひどくなるだろう。
 苛めをしている理不尽なやつは、悪賢いところがあり、ある意味、要領がいいのかも知れない。
 しかし、嫉妬に燃える人は、実直で真剣さはハンパではないので、それだけ精神的に崩れてくると、そのおさまりが効かなくなってくるだろう。
「猪突猛進な人は恐ろしい」
 と言われるが、まさにその通りではないだろうか、
 まだ高校生の二人にはそこまで理解はできていなかった。
 前者の嫌がらせは、苛めと同じで、基本的には、傍観者も加害者に等しいのかも知れない。しかし、この場合は男子が女子に嫌がらせをしているので、それを助けようとするのは難しいかも知れない。男子が助けようとすると、
「あいつ、あの子に気があるじゃないか?」
 とばかりに、変に勘繰られてしまい、助けることがもしできたとすれば、助けた子が自分に対して、
「あの人私を好きなんじゃないかしら?」
 と考えてしまう可能性がある。
 その子のことを好きでも何でもなければ、別に無視すればいいのだろうが、なまじ助けてしまったことによって、却って彼女の気持ちを受け入れなければならないような雰囲気になってしまうのが恐ろしい場合がある。他の人であれば、
「こめんね。俺にはその気はないんだ」
 と言えるだろうが、いじめられっ子だった女の子にその地度を取ると、精神的にかなりのストレスを与えてしまうことになる、だからと言って、好きでもないのに付き合ったりするのは、却って欺くようで、本末転倒である。
 助けたのが女の子だった場合、今度は自分が加害者の標的になる可能性は高いのだ。
 その場合、助けたわけではなく、余計なことをしてしまったことで、誰でもいいと思っている相手の標的を自分に向けただけになってしまい、それこそこの場合も本末転倒になってしまうだろう。
 男性であっても、女性であっても、結果は同じだが、その経緯はだいぶ違う。特に思春期であれば、このあたりの問題は大きいかも知れない。それだけ苛めと一緒で厄介なことに違いはない。
 嫉妬による嫌がらせの場合も、なかなか難しいだろう。
 相手が基本的には素直で実直なので、説得を試みるのが一番なのだろうが、嫉妬している相手を説得するのは難しい。少なく十、当事者にできることではなく、傍観者に頼るしかないのだろうが、傍観者が果たして、この場合の嫌がらせを、
「嫉妬から来るもの」
 だと分かるだろうか?
 たぶん、普通の苛めの一種として捉えることになり、そうなると、
「君子危うきに近寄らず」
 で、自分に害が及ばないように、見て見ぬふりをすることだろう。
 最近では、典子への嫉妬も、少し収まってきたような感じである。典子を苛めていた人の好きな女性のタイプが変わったのか、いわゆる、
「推し変」
 してしまったようだ、
 ただ、それはタイプが変わったわけではない、実は恵子が肩より下まで伸ばしていた髪の毛をバッサリと切って、ショートヘアにしたことで、彼女の恵子に対しての熱が冷めてしまったようだ。
 彼女は、恵子という女性を外見から性格を判断し、好きになるタイプのようで、バッサリと髪を切ってしまったことで、それまで抱いていた恵子に対してのイメージが変わってしまったのだ。
 きっと、
「大人締めの女の子が好きだ」
 というタイプの女の子だったに違いない。
 ロングをショートにすると、活発でスポーティな雰囲気になってしまうことで、まったくイメージも変わってしまった。
――どうして、そんなことを――
 もちろん、恵子が加害者の女性を意識して髪を切ったわけではないのだろうが、彼女にしてみれば、
「裏切られた」
 と思ったのだろう。
 その時点で、
「嫉妬するに値しない女」
 と感じたことだろう。
 そうなると、もう恵子に対しての嫉妬はなくなり、同時にターゲットとしていた典子への攻撃もなくなっていった。
 精神的にストレスが残ってしまうことで、典子にだけ攻撃するということはあってもよかったのだろうが、そこは実直な性格であり、理不尽なことはなるべくしたくないと思っていた。それだけに、今までの行為も、本当はできればしたくなかったのだが、しないわけにはいかない自分の性を言い訳にして、苦しんでいたのだった。

             声フェチと芸術

 五月雨俊介は、自分を、
「声フェチだ」
 と思っていた。
 それも、声の高い人が緊張からか、低い声になった時や、逆に声の低い人が出す、ハスキーボイスが好きだった、
 基本的にどちらも低音の魅力を感じるのだが、微妙に違うのだ。
 これは、中学の時に数人で初めて見たアダルトビデオの影響からだったようだ。元々、高い声の女の子が好きだったのだが、その時のAV女優は、顔から判断すれば、
「この子は声が高いんだろうな」
 と思っていると、思ったよりも低い声だったので、少しがっかりしたのだった。
 しかし、その声にも慣れてきたのか、途中から違和感がなくなってきた。つまり、いい意味でのギャップがあったのであって、しかも、彼女の塗れ場でのあの時の声は、実に切なさを感じさせるものだった。
「ギャップ萌えというのは、このことをいうのではないだろうか?」
 と思ったほどだった。
 その頃から、声が低い女の子も嫌いではなくなった。だが、
「この女優は、低い声に違いない」
 という、いかにもという感じで、ギャップがまったく感じられない人には、好きなタイプだとも、アダルトな塗れ場も、勘弁してほしいと思うであろう。
 ただ、テレビのトレンディドラマなどに出てくる女優で、ヒロインにしても、毎週レギュラーで出てくるような脇役であったとしても、声の低い女の子は好み云々関係なく、普通にいることができる。
「日常とは違う世界だ」
 という意識があるからだろうか。
 それであれば、AVの方がもっと現実を逸脱しているのはずなのに、どうして同じ感覚にならないかというと、
「アダルトは、最初の設定からありえないと思いながらも、妄想によって、自分の頭の中で作り上げる十分にありえる世界である。
 だが、ドラマの世界は、妄想ではなく、あくまでも、まったく別の世界として見ているという意味で、日常でないという意味でも、テレビドラマの方が意識の中で遠いのかも知れない。
作品名:有双離脱 作家名:森本晃次