有双離脱
「犯人が誰なのかということまでは確定はできないと思うんだけど、複数による犯罪ではないと思うの」
というと、
「どうしてそう感じるの?」
と聞かれた恵子は、
「学校にいて、授業中とかに、いつも痛いほどの視線を感じて、後ろの席を見渡すんだけど、すぐにそれに気づいて目を逸らすのか、こっちが気付くとその気配がなくなっているのね。それはどうでしょう、こっちが気付いてから後ろに目をやろうとする行動をとって、実際に後ろを見るまでに少なくとも三拍の行動が必要だもんね。相手は、じっとこっちを見ているわけだから、私が気付いたと思った瞬間に視線を切ればいいだけ、どう考えておも私が振り向いた瞬間には、相手は気配すら消すことができるためのタイミングになっているというものね:
ということだった。
「うんうん、なるほど、その通りよ」
と、典子がいうと、
「それにね。その視線は教室以外のところでも、後ろからしか感じることがないの。視線はいつも一つで、毎日のように浴びていると、その視線が同じ人からだってことは、すぐに分かるというものよ」
というのだ。
「じゃあ、一人の過激なストーカーまがいの人がいたということね?」
「ええ、そうなの」
「じゃあ、複数いるというよりも、気は楽なのかしら?」
と典子に聞かれた恵子は、少し顔が雲った。
「確かに一人しかいなかったということは、複数よりもいいかも知れない、相手は分からなかったけど、もし相手が分かるようになりさえすれば、そういう相手には変な気を起こさせないようにしなければいいだけだって思っていた。でも、本当にそれだけのことなのかっていうことも感じるの」
と恵子がいうと、
「どういうことなの?」
と典子がまたしても聞き返す。
「だって、こちらがいくら気を付けてもどうしようもないこともあるかも知れないわよね。例えば私の態度や素振りに対して異常になるのか、それとも、私のハッスルフェロモンのようなものが相手を狂わせるのか、前者であれば、まだ何とかなるかも知れないけど、後者であれば、防ぎようがないような気がするの」
「それはそうかも知れないわね」
という典子に対して、
「それにね、もし前者だったとしても、その人に対して態度を変えただけではいけないと思うの。相手が密かに私のことだけを見ているのだとすれば、全体に対してその人の好きにはなれない態度を取らなければいけない。でも、その態度が今度は他の男子の異常な部分を刺激したらって思うと、それも怖い気がするのよ」
という恵子に対して、
「それは、少し考えすぎではないかな?」
と、あまりにもネガティブな恵子に対して、典子h半分、あっけにとられたかのように答えた。
しかし、恵子の方は大真面目で、
「そうかも知れないけど、実際に思春期の感受性の強い時期に、あのような嫌がらせを受けると、神経が過敏になるようなトラウマが残るのも無理のないことだと思うのよ。これは仕方のないことだと言って、片づけられないと思うの」
と、恵子は言った。
恵子に対して嫌がらせがなくなると、今度は典子に対して嫌がらせのようなことが起こるようになった。それは二人同時に入学した高校でのことで、それが女子高だったので、嫌がらせの犯人は、女子以外にはあり得なかった。
しかも、その人は正体を隠すようなことはしなかった。むしろ、
「私がやっている」
と言わんばかりの状態に、明らかにその嫌がらせの主旨は、中学時代の恵子に対してのものとは違っていた。
他人が受ける嫌がらせに対しては冷静に見れる典子だったが、そういう人にこそ言えることであるように、彼女には自分が受ける嫌がらせに対して、その対応方法がまったく思いつかなかった。
「どうしてなのかしら? 人のことだったら冷静に見れるのに」
ということが分かっていて、その理由が冷静になれないということが分かっているのに、どうすることもできない自分を訝しく思っていた。
今まで助言していた相手に、相談するわけにもいかない。恵子にだけは知られたくないという思いが強く、なるべく恵子に悟られないようにしていたのだ。
ただ、嫌がらせと言っても、そんなに長く続いたわけではない、それはある時点をきっかけになくなったのだが、なくなったのは、その嫌がらせの加害者が最初から計画していたことではないかと思うと、後から気持ち悪くなってきたのだった。
その時は、恵子に知られたくないという一心から、必死でごまかそうとしていたのだが、典子の性格的に、実に考えが態度に出る人であり、ごまかしがきかない人でもあった。
「典子、最近どうしたの?」
と、恵子は悪びれることなく心配してくれる。
恵子とすれば、
「私はあなたのおかげでここまで吹っ切れたのよ。私が明るくすることが、私を助けてくれた典子に対しての誠意を見せることになる」
と思っていたのだ。
恵子にすれば、ごく自然な考え方で、正当でもある。そんな恵子の気持ちが分かっているだけに、恵子に相談できない自分が訝しく、さらに、相談されないことで呑気な態度ができている恵子に対しても、謂れのないはずの嫉妬を抱いていたのだろう。
それが矛盾していることを重々分かっているにも関わらず、矛盾が地獄のループを繰り返していることが、次第にストレスを生み、ノイローゼ気味になってきた。
それを、鬱病というのだろうが、一番自分のことを分かっていないのが自分だという自覚がないと、永久に分かるものも分からなくなってしまう。
だからこそ、文章にするのも難しい。恵子の場合の嫌がらせに対する被害者の感情と、典子の場合の嫌がらせに対する被害者の感情では、天と地ほどに差があると思うのは、表現することすらできない異常なほど複雑な感情が入り混じっているからであろう。
「そういう意味では、同じような精神的な痛みを感じるのであれば、最初に感じる方が楽なのかも知れない」
と感じた。
それを感じれるようになるまでには、かなりの時間が要したが、理解できたとしても、典子にとって、高校時代に受けたトラウマは、そう簡単に消えるものではないと思うのだった。
典子が地獄のループを繰り返しながら、まるでらせん階段を下りていくような状態に陥っていた時、典子と恵子がぎこちなくなって、恵子が典子を突き放した時、典子に対しての嫌がらせはなくなった。
これは、典子に対しての嫌がらせは、あくまでもその人が恵子を意識していたにも関わらず、恵子のそばに典子がいるという事実を、その人は受け入れられず、恵子への思いをそのまま、典子への嫉妬に変えてしまったという、
「女性が女性を好きになったがゆえに、そのまわりの女性に対して抱く嫉妬心」
というのが、嫌がらせの正体だった。
典子もまさか、恵子に対しての思いが自分への逆恨みに繋がっているとは思いもしなかっただろう。自分に悪いところはないと思っていたので、逆恨みであることは分かっていたのに、まさか恵子が絡んでいるなどと思っていなかったことで、次第に自分が孤立していく状態に陥った時に、恵子のさりげない素振りが鼻についたのだ。