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有双離脱

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 実際にそうなわけもなく、勝手な思い込みだが、弁論大会での演台に立っている人が岡山弁を喋っていれば、シャレにならないというのも、分かる気がする。
 そんなことで感心している場合ではない。自分の声が聞こえないのは、自分の声が小さいからだけではなかった。ヤジがひどかったからだ。
「おい、もっと大きな声で喋れよ」
 と言われたり、
「何言ってるか分かんねぇぞ。どこの言葉を喋ってるんだ」
 と怒鳴っている人もいた。
 確かにこれだけ声が小さければ、やじりたくなる気持ちも分からなくもない。
 そんな弁論大会だったので、
「これなら最下位にならなかっただけよかったというものだ」
 と、自分が情けなくて仕方がなかった。
 あれほど、リハーサルでも完璧だと思っていて、実際に初めて立った演台もそれほど緊張しなかった。さすがに前が見えなかったのには、ビックリしたが、それでも、普段から一人でいることが多いので、まわりが見えないのは慣れているつもりだったのだ。
 それだけに、演台の上でも自分は完璧だったと思っている。
 一位はさすがに微妙だと思ったが、ベストスリーは間違いないと思っていた。それがここまでひどいというのは、プライドがズタズタにされてしまったということであり、恥ずかしさも相まって、話題にすることすら嫌だった。
 本当は、今夜、家出受賞祝いをしてもらおうと思って、
「トロフィー持って帰るよ」
 などと言っていたのが虚しく感じる。
 だが、家に帰って、しょげていると、弁論大会のことはなかったかのように、誰も家で触れようとはしない。それどころか、普段と変わりなく、
「ちゃんと勉強してるの?」
 という毎日恒例の言葉が飛んでくるほどだった。
「今日はこの言葉聞かなくて済みそうだ」
 と思っていたにも関わらず、まさかの言われように、
「本当に弁論大会なんかなかったんじゃないか?」
 と思ってしまうほどだった。
 それならそれでいい。なかったと思えば、悔しくもない。だが、そもそも、嫉妬から出た大会だっただけに、今回も自分が出た大会で、他の人がトロフィーを貰うのは、やはり悔しくてたまらなかった。
「まあ、しょうがない」
 という気持ちが少しずつ出てきたのだが、それでも、自分以外の人間がトロフィーを貰うのが許せないという気持ちに変わりはなかった。
 ただ、弁論大会に出た理由というのが、そんな理由だったというのが、そもそもの間違いだったというのだろうか。
 いや、そうではない。何がきっかけであっても、やる気になったのだから、それは成果としてはあったのだろう。成績は散々だったが、この経験がいずれ自分を変えてくれるということにまだ気づくはずもなかったのだが、いつの間にか、自然と頭の中に閃くことが多くなってきた。
 それがちょうど、弁論大会に参加した時からのことで、あれだけ嫌いだった大会への参加も違和感なく出れるような気がしてきた。
 高校三年生の時、もう一度、性懲りもなく参加したが、その時も下から数えた方がいいくらいだった。
 やはりリハーサルでも本番でも完璧にできたと思っていたのに、後から再現テープを聞いてみると、酷いものであった。同じことを繰り返してしまったのだが、本人は同じことだとは思っていない。少しずつ成長してのことだと思っていた。
 さすがに現実を思い知らされたが、そのおかげで、何かに挑戦するという気持ちが生まれたのも事実だ。自分に自信が持てるまでには至っていないが、
「自信を持てるように努力することは、自分でだってある権利なんだ」
 と思うようになっていた。
 だが、実際には何をやっていいか分からない。
 いろいろやってみようと思って挑戦してみたが、なかなかうまくいかない。思いつくことはスポーツか芸術であったが、スポーツに関しては、最初から運動音痴だということが分かっていたし、本来スポーツよりも、芸術の方が好きだった。
 なぜかというと、スポーツでは記録として形に残るだけだが、芸術は、人に見てもらえるものであったり、人に感動を与えられるものだという考えを持っていた。もちろん、スポーツがそうではないというわけではないが、俊介の中では、その思いが強かったのだ。
 まず最初は、音楽に挑戦してみた。音楽というと、形に残るというよりも、人が聴いて感動するものだという意識があったからだ。
 そもそもスポーツが嫌だったのは、中学時代に、親善のある他校との交流体育祭というものが、一年に一度開かれ、それに向かって、運動部の連中は張り切って練習をしているのだが、それ以外の生徒は、応援という名目で、自分が見たい種目を自由に見学できるということになっていた。
 スポーツが好きな人はいいが、別に好きでもない人からすれば、
「何で俺たちまで、見学しなければいけないんだ」
 と思っていることだろう、
 生徒の中には、学校を抜け出して家に一旦帰るもの、あるいは、街に繰り出して遊びに行くものもいた。学校側はそこまで厳しくなかったので、すべてのスケジュールが終了する午後三時半くらいに、最終点呼を行うので、その時まで戻っていれば、その日は出席したということになった。一種の授業の代わりである。
 そんな一日をバカバカしいと思っていたのは、結構いただろう。確かに、スポーツを通して育む健康もあるだろうが、好きではない人、あるいは、芸術に勤しんでいる人、受験生などは、溜まったものではない。
 それでも、
「受験生と言えども、勉強ばかりではいけない。スポーツを通して、頑張る姿を見て、明日の活力に変えてくれればいいんだ」
 と言っている先生がいたが、それこそ、
「どこにそんな言葉が載っていたんだ?」
 とばかりに、明らかに自分の言葉で喋っていないということが分かる説得力も何もない言葉を言われても、心に響くわけはない。
 まるで、令和三年における日本の首相のようではないか。
 スポーツは、そういうことで大嫌いになってしまった。
 音楽は押し付けではない。聞きたくなければ聞かなくてもいい。しかし、それはあくまでも表向きで、学校から音楽鑑賞と称して、クラシックコンサートなどに行かされることがあった。
「どれだけ生徒を強制するんだ」
 と思った。
 世間では、
「文武両道を掲げた、理想の教育」
 などともてはやされているようだが、それは大人の理論で、子供はそんなものは関係ない。
 部活だって、やりたいからやっているだけで、いくら学校が興味を持ってほしいと言って音楽鑑賞や、親睦の体育祭を催したって、特に思春期で反抗期の生徒にとっては、反発の材料でしかないのだ。
「大体、文武両道って何なんだ? 一人でスポーツもやって、勉強もでくる生徒を一人でも多く輩出したいということか?」
 と考えると、あくまでも、大人の、いわゆる学校の名誉だけが優先されているように思えてならなかった。
 高校に入ると、さすがにそこまではなかったので、まず音楽をやってみようと思った。しかし、楽譜がなかなかなじめないことと、自分の指が音楽に向かないほど短いということを思い知らされる結果になってしまった。
 そこで次にやってみようと思ったのが、
「小説を書きたい」
 と思ったのだ。
作品名:有双離脱 作家名:森本晃次