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無限への結論

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「どうせ日本にいても、飢え死にするか、一家心中するしかないわけなので、満州で一旗揚げよう」
 と言って、長男ではない、家を継ぐ必要のない人が、満州に流れていったのだ。
 のちに、
「五族協和」
「王道楽土」
 などというスローガンによって築かれた満州国の礎となった人たちが渡っていくことになるのだ。
 五族とは、
「日本、満州、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族」
 のことで、当時の日本のスローガンであった。
 ただ、実際には満州というところは、耕しても畑にならないような土地で、しかも、作為時期は、零下何十度という極寒の土地でもあったのだ。ただ、それでも彼らは楽土を目指し、頑張っている。それが日本人の日本人たるゆえんなのかも知れない。
 日本の大陸への進出は、あくまでも、
「アジアから白色人種を駆逐して、アジアに大東亜の共栄圏を作り上げよう」
 というスルー癌があった。
 だから、かつての戦争は、
「太平洋戦争」
 ではなく、
「大東亜戦争」
 なのである。
 どうして大東亜戦争を使わないかというと、占領軍の方とすれば、大東亜共栄圏をスローガンとしてしまうと自分たちが侵略したことを認めることになるから、大東亜という言葉自体を抹殺したいという考えがあったのだろう。
(だから筆者はこの作品に限らず、これまでの作品なども、すべて大東亜戦争と記すことにしている)

          未来にないもの

 戦後になると、それらの話まで戦争犯罪の範囲に広げられ、問題としては、
「天皇に戦争責任があるのか?」
 ということになった、
 日本が戦争に負けるということは実質的に確定した時、政府が考えたことは、
「いかに有利になるように講和条約が結べるか」
 ということと、
「国体の維持」
 が問題だった。
 国体というのは、当時の日本の体制で、
「国家元首は天皇であり、国民は天皇を中心とした元首のもと、憲法による統制である立憲君主」
 というのが、日本の国体であった。
 だからこそ、玉砕であったり、神風特攻隊であったり、本土防衛を基本とする一致団結した考えが持てたのだ。
 しかし、令和三年にはどうであろうか?
 政府は、伝染病が世界レベルで流行していて、水際対策が緩いのではないかと言われている状況の中で、総勢一万人からなる他国からの選手団とスタッフを受け入れ、オリンピックを開催しようとしているではないか。
「このままで開催すれば、日本民族の滅亡を意味する」
 という有識者の判断もあるのに、政府は、
「安心安全なオリンピック開催はできる」
 ということを、ただ繰り返しているだけだ。
 何の説得力もない。感じることは、
「政府は利権のために、全国民の命を犠牲にして、国家を滅亡させる気か」
 ということである。
 かつての大日本帝国下での戦時中であっても、まだ人々を説得させるだけの言葉はあった。
 しかし、令和三年においては一切ない。
「何をもって安心安全というのか、まったく科学的な根拠うはない」
 と自分で言っているようなものだ。
「もし、開催しなければ、莫大な違約金が発生するから」
 という理由なのか、それとも、
「自分が総理大臣の時にオリンピックを開催したという称号を得たいだけなのか」
 のどちらかであろう。
 しかし、開催することで、
「日本を破滅に追い込んだ首相」
 として、自分も含めて、民族滅亡の憂き目に遭ったとしても、この言葉は永遠に残り続けるのだ。
 歴史の教科書に、写真入りで、
「東京五輪が開催された時の首相」
 という名目ではなく、
「国家を滅亡にと追いやった、史上最低の国家元首」
 として、ずっと教科書に載るということになるとは、思わないのだろうか?
 どれだけネガティブだと言えばいいのだろうか? それとも、ただのバカなのだろうか? これが一国の国家元首だというのだから、開いた口がふさがらないというべきであろうか。
 たぶん、オリンピックはするのだろうから、民族が滅亡しているかも知れないということで、
「では、この世界は一体何なのだろう?」
 と思ったが、それでも歴史が続いている以上、民族の滅亡は免れたということであろうか?
 本当はそのあたりも知りたいのもやまやまだが、
「未来のことを知りすぎるのは、タイムパラドックス的にはよくないことだ」
 と言われているし、松岡も同じことを感じている。
 先ほどから見ている未来の世界がアンティークなのは、そのあたりのことが繋がっているのかも知れない。
 あの時の何かが教訓となっているとすれば、過去に学んで、それぞれに微妙に違う文化を取りいれることを正解と考えたのかも知れない。
 そのままマネしただけでは、また同じことを繰り返す、少しでも過去に学ぶことで、国家の滅亡を招かないように、過敏に反応しているのだろう。
「この世界は、きっと、オリンピックを境に、過去に学ぶことを覚えたのではないか?」
 と思った。
 令和三年時点では、その少し前から歴史に興味を持つ人が増えてきたのだが。それはあくまでも、
「トレンディー」
 ということでの興味であった。
「歴女」などと呼ばれる人が増えてきたのも、インスタグラムやSNSの普及が大きかったのかも知れない。
 しかし、この時代も歴史に造詣が深そうなのだが、それはトレンディーなどという生易しいものではなく、
「生きていくため、自分たちが生存していくためには必要」
 だということなのだろう、
 歴史を勉強することは楽しいのだが、その楽しさすら考えようともせず、
「歴史なんて面白くない」
 と感じさせたのは。教育の在り方にも問題があるだろう。
「歴史って暗記ものだ」
 と考えている人が多いようで、実際には、
「今を生きるための糧であり、さらに教訓なのだ」
 ということである。
 本来なら、必死に勉強して、自分なりの答えを出さなければいけないものだ。
 だが、歴史は勉強して正しく理解さえしていれば、答えを導き出すことなどは、誰にでもできるからだ、
 なぜなら、歴史が答えを出してくれているからで、学校で試験問題になるのは、その答えがハッキリと分かっているからであろう。
 だが、歴史の本当の答えは、学校での試験問題とは違う。何が違うかということを最初に考える必要があり、その答えが見つかった頃には、歴史の答えがどこにどのように存在しているのかが、分かることになるであろう。
 この時代のこの様子は、
「ひょっとすると、かつての歴史の答えをそのまま表しているのかも知れない」
 と考えると、ただ、それが自分の知りたい答えに繋がっているという意味での答えだということも一緒に分かった気がした。
 そもそも歴史の答えなどというのは、歴史が存在していれば、その瞬間瞬間がどこかの歴史の答えなのかも知れない。
「何かがあるから、今がある」
 ということをいう人がいるがまさにその通りだ。
 何も結論だけが答えではない。答えを導くためのプロセスも立派な答えなのではないだろうが。
 そう考えもせず、
「結論が出ていないから、答えではない」
 と考える方が乱暴なのではないかと思えてきた。
作品名:無限への結論 作家名:森本晃次