無限への結論
ただ、さすがに、令和三年という時代であれば、まだ歴史上の天皇というイメージではないだけに、少し違和感があった。
「どうして、よりによって昭和天皇なのだ?」
という印象が深かったのだ。
五千円札をみると、そこに描かれている人物。これこそ、さらにビックリなのは、何と東条英機ではないか。かつての大東亜戦争を引き起こしたと言われる元首相兼陸軍大臣を主とした数々の大臣兼任者であった。
何といっても、参謀総長を兼任したことで、独裁とまで言われたのだが、それは歴史の事実とは少し違っているように思える。
そもそも、旧陸軍(海軍にも言えることだが)というのは、明治政府によって作られた「大日本帝国」
という立憲君主の国では、そもそも、藩閥政治の名残からか、薩摩長州の息のかかった人たちが政府の中枢にいたことで、成り立っていた。
したがって、軍部の力が一極集中しないようにということも考えた軍の構成になっていたのだ。
その例として、陸軍などは、大きく二つに分かれていた。一つは陸軍省で、もう一つは参謀本部であった。
陸軍省というのは、省という言葉がついているように、政府の一環である。そして、参謀本部というのは、憲法の中に明記されている、
「天皇大権」
というものがあるが、そこには、天皇の統帥権として、
「陸海軍は、天皇に統帥す」
と書かれていることもあって、あくまでも天皇直轄なのである、
したがって、政府の一環である陸軍省は、あくまでも政府の下ということであり、統帥権の下の参謀本部には逆らえない。
だから、総理大臣や陸軍大臣と言えども、軍の決めた作戦ややり方に口を出してはいけないのだった。
参謀本部の参謀総長は、陸軍としての最高位である。したがって首相や陸軍大臣が何かをいうのは、天皇の統帥権を干犯していることになり、憲法違反ともなるのだ。
そして、憲法に規定はないが、このような政治体制であることから、
「陸軍大臣と、参謀総長を同時に歴任してはいけない」
という慣習があったのだ。
ここが、明治時代に作られた法律の問題点だったのだろうが、しかし、もし陸軍大臣と参謀総長の歴任を認めると、確かに軍での独裁に繋がるという意見ももっともなことだったのだ。
そんな歴史があったのだが、不幸にして大東亜戦争に入ってしまった。時の首相で陸軍大臣であった東条英機は、本来であれば、
「戦争責任者」
として戦争を指揮する立場にあるのだが、この統帥権問題から、
「軍の方針に口を出してはいけない」
ということから、作戦は教えてもらえず、さらには意見もできない立場で、何が戦争責任者と言えるのだろうかということになる。
ただ、本当の戦争責任者は、あくまでも国家元首である天皇だ。宣戦布告の詔だって、署名は昭和天皇、その下に日本政府の首相を中心とした各大臣が列挙されているだけのことだったのだから、名実ともに戦争責任は天皇にあると言っても過言ではないだろう。
そのため、東条英機は天皇に直訴し、
「今は緊急事態で、国家の存亡がかかっています。今回だけの特例として、陸軍大臣と首相、そして参謀総長の歴任をお認めください」
と言ったが、天皇は、
「それで、独裁のような体勢にはならないか?」
と念を押したところ、
「それは問題ありません」
と答えたことで、彼の目的は達成され、やっと、戦争を自分の手で指揮できるようになった。
しかし、事態はすでに手遅れだった。政府ですら知らない酷い惨状を、大本営に入ってしまうと、
「何だこれは? こんなにも酷い惨状になっていたのか?」
と驚愕したのも無理もないことだろう。
しかし、何も知らない、半東条英機派と言われる連中は、東条下ろしに躍起になっていて、暗殺計画もたくさん計画され、その一部が露呈し、計画した連中は戦場の最前線に送られることで、結果的に、皆殺されることになった。
だが、実際にはその前に東条内閣は総辞職していた。その際に、参謀総長も辞任して、第一線から遠のくということになってしまった。
ここから先はいかに、戦争を被害を小さく収めることができるかということに掛かっていた。
だが、ここまで濃く見にゃ軍部を煽ってきた政府に戦争を辞める機運を高めることは無理だった。
「一億総火の玉」
などと言われて、一兵となっても戦い続けるという教えの下、日本国のほとんどが焦土となった悲惨な時代だったのだ。
何とか日本民族の滅亡だけは逃れることができたのだが、この頃の政治家を悪く言えるかどうかは難しいところである。皆が皆、国家を憂いて、国家のためだけを考えていたのだ。令和三年の政治家に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいである。令和三年の政治家は、皆国民の命などどうでもよく、自分の利権だけのために、国民を見殺しにし、日本民族が滅亡しようが自分には関係ないと思っている連中ばかりだったからだ。
要するに、昔の政治家と今の政治家(令和三年)とのどこが違うのかというと、一番大きいのは、
「説得力の有無」
ではないかと思うのだ。
確かに戦時中、戦前の日本は、国家に縛られ、今のような自由はなかったかも知れない。しかし、それも、西洋列強の国から植民地のようにされて、清国のように、国をメチャクチャにされないようにするのが、明治政府からの国家としてお目的だった。
不平等条約の撤廃などを目標に、殖産興業、富国強兵を掲げ、日本という国は、戦前では国家としては、アジアの中でも有数の国家だった。
だが、今の時代はどうでろうか?
終戦後に朝鮮戦争などの特需によって、国が復興できたおかげで、先進国に仲間入りができるまでになった。
そんな国家でも、戦前の日本という国は、科学力では世界有数と言われるほどであったりした実績がある。
ただ、日本という国が島国であることも一長一短があった。
日本という国は島国であり、地理上の問題もあって、植民地にならなかったという意味での島国でよかったという発想もあれば、安全保障上、朝鮮や満州に進出する必要があったということと、もう一つ、満州事変の一番のきっかけだと言われる、
「人口問題」
があった。
昭和初期の日本は、人口が爆発的に増えてきて、さらに東北の不作などがあり、とても日本の国土だけでは国民を養っていけなかった。
しかも日本は資源にも乏しい国であったこともそれに輪を掛けた。
そこで考えたのが。
「満蒙問題解決に、日本の人口問題を結び付ける」
ということだった。
日本人の農家などでは、
「娘を売らなければその日の暮らしもできない」
と言われたほどに、ひどかったのだ。
そこで目を付けたのが、日露戦争で手に入れた満州の権益だった。
ここは、当時は満州鉄道と、そのまわりの架線付近にしかなかった権益を、クーデターによって、満州全土を日本の権益の及ぶところにしてしまい、そこに国民を送り込むことによって、人口問題と、満蒙問題を一気に解決しようという考えであった。
「満州には、まだ未開の土地がたくさんあり、そこには豊富な資源が眠っていて、今満州に渡れば、開拓した人のものになる」
などという宣伝をされれば、開拓者精神に目覚める人も多く、