無限への結論
ファッションだけではなく、町全体が何かレトロブームを感じさせた。しかも、そのブームは八十年代に限ったことではなく、微妙に時代がずれているようにも感じた。それは別に歴史を知らないからというわけではなく、知っていてわざとやっているのではないかということを思わせた。
それにしても、街の中にはアンティークショップの多いこと、そして、その店頭にはオルゴールが置いてある店が多かった、
アンティークショップの他に目立つのは、スーパーに、コンビニ、そしてファーストフードにファミレスだった。逆にそれ以外の店を探すのも大変なような気がするくらいだった。
しかし、街並みは明らかにレトロな雰囲気であったが、インフラは発達しているようだった。
道路は現存しているが、空中には、未来予想図鑑に載っていた空中のパイプが存在していて、そこの中間点となるところにはビルのような建物が乱立している。ただ、それはあくまでも中間地点だけで、民家はあくまでも一軒家を形成していた。
一つ気になったのは、あまり表を歩いている人がいないということだった。一体これはどうしたことなのだろう?
歩きながらまわりを見渡していると、空中を通る車はそこそこいたが、地上の道路を走る車はいなかった。
―ーいったい、どういうことなんだ?
と、松岡はあまりにも想像とかけ離れた未来だったので、本当にこれが自分たちの未来なのかと思うと、一瞬パラレルワールドを想像し、間違った未来に来てしまったのではないかという妄想に駆られた。
これh最悪のシナリオも考えられる、
それはなぜかというと、
「もし、パラレルワールドの違う未来に来てしまったのだとすると、もし、元の世界に帰る時、そのまま帰ってしまっては、違ったパラレルワールドの違った過去に戻ってしまうことになり、自分がいた世界とは違うところに飛び出してしまう可能性があるのではないか?」
という考えであった。
もし、それは間違っていなかったとすれば、戻った世界には、もう一人の自分がいることになるのだが、大丈夫だろうか?」
それを考えると、
「この世界に、もう一人の、というか未来の自分は本当にいるのだろうか?」
と感じられた。
これはタイムスリップなどで言われていることとして、時間を超越した時に、
「もう一人の自分に出会うということも、タブーである」
と言われているではないか。
それを思うと、本当はあまりウロウロするのもいけないのかも知れない。
しかも、ここは三十年後の世界、普通に考えれば、結婚して子供もいておかしくない時代、際十歳で子供ができていれば、今の自分と同い年のはずである。それを思うと、
「三十年後の未来というのは、タイムトラベルの実験としては、中途半端であり、選択を間違えたのかも知れないな」
と感じるのだった。
タイムトラベルをするために、タイムマシンを開発した。皆が開発することに必死になっていて、思った以上に完成してしまった時に、恍惚の精神状態に陥り、他のことを考える余裕がなくなってしまったのかも知れない。
冷静に考えていれば、こんな変な時代選択などしなかったのではないだろうかと思うのだが、確かに三十年後の未来は、大きく変わっているか、それほど変わっていないかのどちらかではないだろうか。
松岡は街並みをゆっくりと見ながら、最初は一つの店を角度を変えながら見ていた。それはファミレスであり、店の中を見ると、結構人は入っていた。
時間的に見ると、ランチタイムの時間であり、会社員のような人が多いような気がした。
だが少し気になったのは、ファミレスにいくつかの違和感があったからだ。
まず中を見ると、テーブル席が異様に少ない気がした。その代わりにカウンター席か、テーブル席があっても、二人掛けの席が多かった。
だからと言って、席がたくさんあるというわけではない、無駄にスペースが広いという感じがして仕方がなかった。客が多いと言っても、そのほとんどは単独の客ばかりで、喋っている人が皆無に近いのは、違和感以外の何物でもなかった。そういう意味で、店舗の雰囲気が、
「まるで、ファーストフードのようではないか?」
というものであった。
そしてもう一つ気になったのは駐車場で、駐車場はファミレスとしては普通くらいの広さなのだが、そこに車は数台しか止まっていない。これだけの客であれば、駐車場はせめて半分くらいは埋まっていないのはおかしな気がするのだった。
「やっぱり何かがこの時代にはおかしなことになっているような気がする」
と感じていた。
それに中を見ていると、喫煙室もなかった。
自分がいた令和の時代には、受動喫煙防止法が制定され、喫煙場でしか吸ってはいけないという法律ができていた。そのせいもあってか、表の路上喫煙なども目立っていて、最初の頃は、
「こんな法律、どんな意味があるというんだ」
と思っていた。
三十年経った今。その法律はどうなってしまったのだろう?
と、そんなことを思いながら、フラっと入ったファミレスで、注文をしてみることにした。
席に座ると、ウエイトレスの女の子がメニューとお冷を持ってきてくれた。その様子はあたかも、昭和のレトロさを感じさせる。制服も見慣れたもので、二十一世紀初頭くらいのものではないかというイメージがあった。
いらっしゃいませ。メニューをどうぞ」
と言って、メニューをおいてすぐに、戻って行った。
それを見て、松岡は、ハッと思った。
「そういえば、確か、令和七年か八年には、お札が新しくなるんじゃなかったっけ?」
という思いだった。
三十年も経っているのだから、もう一度くらい、お札の柄が変わっていても無理もないことだと思ったが、そう思って思わず、財布を開いて見てみると、そこには、見たことのない、いや新しいというべきなのか、肖像画の書かれたお札が入っているではないか。
そういえば、タイムマシンの研究とは別に、未来に行った時に順応できる環境を自分の中に持つことができるものを開発していた人がいた。
「そんなことが可能なのか?」
と聞くと、ニコニコしながら、
「タイムマシンを作るよりも簡単なんじゃないかと俺は思っているんだ。何しろ、タイムマシンのようにいろいろな制約はないからな」
と言っていたのを思い出した。
財布の中の肖像画に描かれている人を見ると、あまり普通は知られていない人が多かった。
きっと政府から発表があった時、
「誰だ、これは?」
という風に世間はなったのではないかと思えた。
令和三年までのお札の変革の経緯を思うと、確かにお札に描かれている人の質がどんどん落ちているというか、歴史上、これって誰なんだ? というイメージを持たれる人が増えてきた気がした。
政治家よりも文化人が多くなったというイメージだったが、歴史を勉強している松岡には、そのお札の種類によって描かれている人物が誰なのか、分かっていたのだった。
まず一万円札の描かれている人物。何と昭和天皇ではないか。歴史の教科書に載っていたその顔そのものである。