無限への結論
「珍しいというのもあるんだけど、なぜか懐かしさもあるんだ。一度も見たことがなかったはずなのに、実際に入ってみても、懐かしさを感じる。しかも、ケガをしたという感覚があるんだけど、でも、これって未来に起こることを予知しているかのような気がするので、今日はよほど気を付けておかなければいけないと思うんだ」
というと、
「それは予知夢のようなものかな? 僕も予知夢というのは信じる方なんだけど、実際にあるとすれば、どれくらい先のことを予知できるんだろうね?」
と言われて、
「ハッキリとは分からないけど、個人差はあるだろうね。僕の中では、十年くらいがいいところではないかと思うんだけど、これもハッキリ言って、漠然とした考えなので、曖昧なんだけどね」
と言った。
予知夢というのは何となく信じられるような気がしていた。
そもそも、このような時間の捻じれであったり、タイムマシンに絡むような話は、意外と似たところからの発想であったり、発想自体がどこかで繋がっているように感じられるので、どれか一つが信じられると思うと、他のことも信じられるような気がしてくるし、逆に信じられないと思えば、他のことも信じられない。信じられることであっても、信じられないことであっても、そこには、必ずそれを証明する根拠のようなものが存在するに違いない。
だが、予知夢というのは他の話を信じられないと思う中で、これだけは信憑性を感じるのは、自分にも経験があるからだろうか?
その時にいつも決まって思うのは、
「予知夢というのは、いつも後から思うと、見るべくして見た」
と思うことだった。
予知夢などというのは、最初から見ようと思ってみるものではない。
「今日は予知夢を見よう」
と思いながら眠ったことなど一度もなかったのに、実際に現実として起こったことを見た時、
「これって予知夢だよな」
と思ったのだ。
現実に起こったことが、まるで夢のことのように思えてくる。それが自分にとっての予知夢なのだが、予知していたことを思い出した瞬間、その予知夢は、見ようとして見た夢だったような気がして仕方がなくなる。
だが、またしばらくして、見ようと思ってみたわけではないということを意識している自分に気づくのだった。
きっと、その瞬間だけ、見ようと思って見たものだと思い込まされているような気がするのだ。
つまりは、見えない何かの力によって、マインドコントロールされているというか、意識の中に植え付けるものがあるということ。
もちろん、そんな力が存在するとしても、その力が自分に何を及ぼすというのだろうか?
誰かにコントロールされているとして、コントロールする人のメリット、そして、なぜ自分なのかという疑問。そのあたりが分かっていないと、予知夢自体に信憑性を感じる自分が信じられなくなる。
「まさかそれが狙いではないか?」
信憑性をわざと抱かせて、それを理論的におかしなものだと思わせることで、予知夢というものを本当に信憑性のあるものだということを理論的にも導くためという回りくどいやり方をされているのではないかという思いもあった。
そう思った時に、それを自分に対して行うことのできる、そしてメリットを感じられる人間がいるとすれば、
「もう一人の自分」
ではないかと思うのだった。
タイムトラベル、タイムパラドックスという概念からであれば、もう一人の自分というものの存在は考えられなくもない。それぞれの脆弱性を補うために、自分に思い込ませることで、もう一人の自分は、その存在とタイムパラドックスを証明しようとしているのではないかと考えたことだ。
「もう一人の自分の存在」
という考えは、松岡以外でも結構たくさんの人が感じていることなのかも知れないが、どのほとんどは信憑性など持っていない。
「本当にもう一人の自分がいたりすれば、怖いではないか」
と誰もがいうだろう。
それは、やはりドッペルゲンガーの都市伝説を信じているからだ。ドッペルゲンガーの都市伝説は、意識はさせても、それを信じさせないというストッパーという意味で、非常に重要なものではないかと、松岡は考えた。
松岡は、
「タイムマシンというものには、限界がある」
と考えている。
限界があるのはむしろ、タイムマシンだけではなく、パラドックスにもタイムスリップというものにも限界を感じている。それは、あくまでも思考部分においての限界であって、実際に存在するものであるとするならば、その時初めて限界を感じないものとして証明されるのではないかと思っているのだ。
タイムパラドックスも、タイムスリップも、その原点は、
「無限ループ」
にあるのではないか。
無限にループするから、止まることがなくて、限界がないように思えるのだが、ループということは必ず、どちらかには境界があって、そこでクルッと回ってくるものである。それが結界であるのか、見えているのに見えないという、
「路傍の石」
のようなものなのか、それが意識として理解できないものになっているのではないかと思うのだ。
考えれば考えるほど、視界が狭まっているような気がする。その時、
「焦点が絞れてきたので、核心部分に近づいてきている」
と普通であれば考えるであろう。
近づいてきて、ハッキリしていることには違いないのだが、それが、本当に核心なのかどうか、誰が証明できるというのか。
そこからまたしても無限ループに突き進んでいくようであれば、初めて、狭まった環境が、意識の中の限界だったのではないかということを感じるだろう。
すべてが、過ぎ去った後で感じることだ。
予知夢を見ようと思っていて、それで見たことなのだという意識だって、後から感じるものではないか。
要するに、何かの発見というのは、そのすべてが、
「辻褄合わせ」
ということではないだろうか。
松岡は、デジャブという現象まで、辻褄合わせによるものだという独自の考えを持っている。
本当は見たことがないはずのものを、見たことがあるかのように思ってしまったことの辻褄を合わせるために、自分の記憶や意識の中から、辻褄を合わせるためのものを探してこようとする。その行動が、
「後付けによる辻褄合わせではないか」
と思うことが、信じられないという思いを、
「不可能を可能にする第一歩だ」
と思っているのだった。
夢の中で見た未来の世界。
そこは、最近見た。
「未来予想図鑑」
に乗っていた内容だった。
その図鑑というのは、馴染みの喫茶店に置いてあったもので、その喫茶店のオーナーが、柿崎研究所のメンバー御用達だったのだ。そのオーナーというのは、元、SFマンガ家だということであった、実際に未来のマンガや、ロボットに支配される世界を描いたマンガだったが、他のマンガ家と違っていた。道徳っぽさはなく、かといって、過激な感じでもないその作風は、読む人に、
「謎を秘めた作品が多い」
と言わしめた。
彼の図鑑は、マンガを元にして書かれているものが多かったのだ。