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無限への結論

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 とにかく、タイムマシンができるということは過去の世界において、知ってはいけない事実だということなのであれば、理屈は分かる。
 さらに、タイムパラドックスにおいて、
「過去を変えてはいけない」
 という考えの下、余計にタイムマシンの存在を示してはいけない。
 逆に考えると、タイムマシンの存在を知らせたくないという考えから、過去の人間に、
「過去に行って、歴史を変えてしまうと、何が起こるか分からない」
 という知恵をつけたのかも知れない。
 定説ではあるが、あくまでも都市伝説である。どこまで信頼できるものなのか、分かったものではない。
 それを考えると、
「タイムパラドックスというのは、未来人によるマインドコントロールなのではないか?」
 という考えも出てくる。
 その考えもタイムパラドックスがよくできているだけに、マインドコントロールという発想もよくできていると言えるのではないだろうか。
 過去に行くことはタブーだと思っていたが、果たしてそうなのか。未来に行くことの方が安全なのか。何とも言えない。
 過去というのは、実際に書物などが残っていて、ある程度の過去までは証明されていると言ってもいいが。未来に関しては。この瞬間よりも先は何の保証もないのである。
「未来に飛び出してみると、世界はなくなっていた」
 という笑い話のようなことが本当かも知れない。
 その場合、何もない世界に飛び出すことはできるのだろうか?
 何もない世界に飛び出すことができず、その反動で、元の世界に戻ってこれればいいが、まったく違った世界に飛び出してしまわないとも限らない。しかも、場所が違っていれば理解できない世界に飛び出すことになる。時間を超越することができても、出てくる場所までは特定できないところが難しいところであった。
 そんなことを考えていると、タイムパラドックスに対しての意識は薄れていき、それよりも、未来に飛び出せるかどうかが気になるところであった。そういう意味で、いつの未来に飛び出すかというのも問題であったが、一度実験をしてみるのもいいのではないかと考えたのだ。
 つまり、ごく近い未来に飛び出して、本人は、
「時間を超越した気持ちはないのに、気が付けばセットした時間の分だけ時間が過ぎていた」
 という考えである。
 それは短すぎても時間を超越したのかどうか実感がないし、長すぎると、実験としては広すぎるだろう。とりあえず、一日後の同じ時間に飛び出すことにしてみた。
 一つの疑問は、飛び出した場所に、もう一人の自分がいるのかどうか、ということである。
「自分というのは、元来一人であり、それぞれの世界に自分がいると思うのは、その時間を飛び越えているからで、自分だけが飛び越えているのであって、他の人はそれぞれの世界に存在しているのではないかというのは、無理のある発想であろうか」
 ということを考えれば、飛び出した世界に自分はいないことになる。
 それを証明するには、飛び越えた先の時間で、飛び超えた瞬間から、飛び出した瞬間まで、自分を見た人がいないということを証明すればいいと思っている。一人でも見たという人がいれば、その発想は根本から崩れ去り、飛び出した瞬間にも、そこから先の時間にも、自分というのが存在しているという考えだ。
 松岡は、
「この発想には無理がある」
 と思っている。
 同じ世界の同じ次元にもう一人の自分が存在するという発想、これはドッペルゲンガーという発想である。
 しかも、このドッペルゲンガーというものは、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまうことになる」
 という都市伝説がある。
 つまりは、
「ドッペルゲンガーというもの自体がマインドコントロールではないか?」
 というものであり、タイムマシンでの時間旅行をさせたくない見えない力が、ドッペルゲンガーという発想を人間の心に抱かせているのではないかという考えである。
 タイムパラドックスにしても、ドッペルゲンガーにしても、もしそれがタイムマシンへの警鐘であるとすれば、今までの科学者には、皆それぞれに警鐘が存在したということであろう。しかも、ここまでリアルな発想を考えると、
「過去にもタイムマシンを作られた形跡があるのではないか?」
 というものがあった。
 昔見たSF映画で、タイムスリップに巻き込まれ、過去に行った人が、最後には未来のもとの世界に戻ってくるという話であったが、過去に行ってから、行方不明になった人が元に戻るタイムスリップに間に合わなかった。そのまま過去に取り残された形である。
 その期間が三十年くらいのものだったのだが、そもそも最初に過去へのタイムスリップも、
「何やら仕組まれている感覚があった」
 という人がいた。
 実際にはその人が行方不明になったのだが、未来に戻ると、それを仕組んだと思しき富豪の夫婦がいるのだが、その人は正体不明の国家機密に当たる人だという。しかし、未来(つまりは現在)に戻ってきて、
「あなたにお会いしたい人がいる」
 と言われて、その人がこの事件を画策した富豪だという。
「お久しぶりですね」
 と言って微笑むその人は、何と、過去で別れてしまった人物が、年を取った姿だった。
「募る話はいくらでもある」
 と言って、富豪はボーっとしている主人公を高級車に乗せて、そのまま富豪の家に去っていくというラストシーンであった。
 その話を今思い出していた。
 正直その話を見て、タイムマシンに興味を持ったのだ。それを今思い出してみると、
「この状態も、あの時の映画のように、最初から仕組まれていたのではないだろうか?」
 と思わせる。
 一つが仕組まれていると思うと、その繋がりになるものは、すべてが見えない糸で繋がっているとしか思えなくなり、映画と言って、バカにできるものではなく、そもそも小説のネタにタイムマシンも、ロボットもあったわけではないか。どこまでが、自分の考えによるもので、どこからが、仕組まれたことなのか、考えるだけで恐ろしくなってくるのだった。
 その映画がタイムマシンに興味を持つ一つではあったが、それだけではなかったようあ気がする、
 それは体験談と言っていいおか、子供の頃に夏休みになうと、おばあちゃんの家に遊びに行ったものだ。
 今から二十年前なのに、田舎のその風景は、まるでテレビで見た昭和の頃の下町を思わせる街並みであった、友達になった同じ小学生の子供の家は結構大きな家で、家には蔵が残っていたり、昔の農家を思わせる納屋のそばに旧家があったが、そのすぐ横に、都会でもあまり見ることのできない豪邸が聳えていた。何と言っても蔵があるのはビックリしたが、
「一度遊びにくればいい」
 と言ってくれたので、
「どこが見たい?」
 と言われて、すぐに、
「蔵が見たい」
 と言ったことに、友達は苦笑いを浮かべ、
「いいよ」
 と言ってくれた。
「いきなり蔵が見たいという人も珍しいのでビックリしたけど、珍しいのかい?」
 と訊かれて、
作品名:無限への結論 作家名:森本晃次