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無限への結論

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 などという縛りもないし、過去を狂わすにしても、未来を知らないのだから、そこに罪はなく、変わってしまったとしても、それも運命だということになるのではないか。それが本当のパラレルワールドという発想だとすれば、ごく自然に受け入れることができるだろう。
 もう一人の自分が存在するということを、いわゆる、
「ドッペルゲンガー」
 というのだが、ドッペルゲンガーの存在するパターンがいくつか研究されているのだが、その中に、
「ドッペルゲンガーは、実態である本人の行動範囲以外の場所に、決して現れることはない」
 と言われている。
 これも、今の説を考えれば、納得のいく考えではないだろうか。
 ドッペルゲンガーの発想も、タイムスリップの発想も、要するに、自分が存在得た場所にしか現れることができないのだ。
 ドッペルゲンガーという発想がどこまで信憑性のあるものなのか分からないが、すべての人に起こっているわけではない、タイムスリップがもし、横行している中での一部なのだとすれば、それは過去の自分に戻ることのできなかった失敗が、最悪な結果を生んでいるのかも知れない。
 そもそも、過去に自分が戻ってくるという発想は夢で見ることであり、正常に戻ってくることができたその時には、未来の自分が乗り移って、その瞬間に、夢のこともドッペルゲンガーのことも忘れてしまうのではないか、失敗した時だけ記憶に残っているので、
「ドッペルゲンガーを見てしまった」
 ということが、恐怖で残ってしまい、言われている通り、タイムパラドックスを起こしてしまい、死に至るという考えは無理なのだろうか?
 そう考えると、
「ドッペルゲンガーの正体は、タイムスリップの失敗によって引き起こされることだ」
 と言えるのではないだろうか。
 ただ、そのタイムスリップもどのようにして起こるのかということが、一つの問題として残ってくる。
「タイムマシンのような、人間の発明品によるものなのか、人間の中に潜在している、能力、いわゆる超能力によるもので、しかもそれは無意識に起こるものなのではないのだろうか?」
 という考え方が生まれてくる。
 いや、この考え方は、タイムマシンを作っている間に、生まれてくる発想ではないか。松岡もその発想をどこかで感じたはずだった。
 今思い出してみると、それはタイムマシンの開発を始めた最初の頃ではなかったか、それを思うと、松岡は、
「そんな風に最初に思ったことなので、いまさらのように感じていることなのではないだろうか?」
 と思うのだった。
 タイムマシンというのが、開発されようがされまいが、タイムスリップを無意識に繰り返しているのが人間であるとすれば、ある意味タイムマシンの開発というのは、あまり意味のないことだったのかも知れない。
「過去の科学者の人は皆そのことを危惧していたのではないか?」
 と、いまさらながらに気づいた松岡だったが、彼はそのことに気づく前にタイムマシンを開発し、運用してしまった。
 これは、
「タイムマシンの開発が早く、それだけ頭がよかったと見ればいいのか、それとも、タイムトラベルの本質に気付かなかったことが招いた勇み足ということで、気付かなかった頭が、悪いということなのか、それは五十歩百歩の考え方で、どちらをとっても結果同じことになってしまうのだろう」
 と考えてしまう。

              三十年後の意義

 いろいろ考えてしまうと、未来に来てしまったことが悪かったのか、もっとも、過去に戻ったとしても同じなのだろうは……。
 そのことを考えると、
「三十年後の未来の自分って、存在しているのだろうか?」
 と考えた。
 ひょっとすると、三十年後の自分に今の自分が乗り移ったのではないかと考えると、年齢的にはもう、還暦前くらいだと言ってもいいだろう。
 しかし、意識だけは三十年前と同じである。鏡で自分の顔を見たわけではないので、どんな姿になっているのか疑問である。
 ただ、さっきの発想で、過去の自分に乗り移り、そのまま過去に戻った時との間を永遠に繰り返すという発想でいけば、飛んできた未来から先、自分はどうなってしまうのだろう?
 未来の自分に乗り移るのだろうか? それとも、そもそも未来にいくのと過去に行くのを同じ、
「タイムスリップ」
 という言葉で表しているが、実は違うものであり、発想も別で考えなければいけないのではないかと思うのだった。
 そういう意味での未来へのタイムスリップは従来のような考え方にしかならない気がする。未来においての自分に乗り移ると、急に過去がなくなってしまうことになるからだ。
 だが、そこまで考えてくると、過去の記憶がなくなる人だっているではないか。それは事故であったり、ショックで記憶を失うと言われているが、ひょっとすると原因不明と言われている中に、タイムスリップしてきた過去に存在していた自分が乗り移り、その間の記憶があるはずがないので、記憶喪失という形で診断されているのかも知れない。
 そう思うと確かに、失った記憶というのは、意外と近い過去のことで、子供の頃の記憶は残っていたりすることも多いというではないか。
 それが、過去に行く時と同じ発想であれば、十分に理解できる感覚だと言えなくもないだろう。
「一体、どっちなんだ?」
 と自分にいい聞かせるが、それこそ結論がそう簡単に出るわけもない。
 少なくとも、自分でタイムマシンを作り、未来に来てしまったという意識は残っている。しかし、過去に戻ろうにも、なぜかタイムマシンの存在は知られてしまっていて、そう簡単に過去に戻ることはできない。
 そうなると、
「この世界でいかにして生きていくか?」
 という発想に、早めに切り替えなければいけないのではないかと考えるのだった。
 考え始めてから、どの段階で割り切ることができるのか、それが問題だが、今までの経験からいって、
「結構かかるのではないか?」
 と考えられた。
 いつも一つ一つ納得しなければ、考えをまとえていくことができないという、科学者の宿命というか、性のようなものがあるからなのかも知れない。
「タイムマシンを開発しようがしまいが、結果は同じになっていたのかも知れない」
 と感じたが、未来にだけは、さすがにタイムマシンでなければいけないように感じたのは、やはり都合よく考えるという科学者のエゴからくるものではないだろうか。
 この世界兄とどまっている間、もう一人の自分が存在しているのかどうか、探してみようかと思ったが、
「見つかったところで、どうなるというのだ?」
 と感じた。
 確かに、ドッペルゲンガーの正体を突き止めるという意味で、もう一人の自分が未来に存在しているのかどうかを探すのは、一つの手段かも知れない。しかし、それが分かったところで、ドッペルゲンガーの正体が分かったところで、自分が過去に帰るという今一番問題となっていることへの解決になるものではないだろう。
作品名:無限への結論 作家名:森本晃次