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時間の螺旋階段

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 大正時代というと、ちょうど近代文化が花開いてきた時代であり、ロマンと呼ばれる芸術が好まれていた。だが、時代はそれを許さず、関東大震災、昭和に入ってからの大不況、それによって、軍部が台頭してくるという動乱の時代、そこからは、戦争に向かって突き進む時代と言ってもいいのではないか。
 そんな時代の探偵小説は、猟奇殺人であったり、大正ロマンのイメージを残したままの動乱の時代に差し掛かったことで、いわゆる、
「耽美主義」
 と言われるものが、流行ってきた。
 耽美主義というのは、
「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮である」
 と言われている。
 つまりは、
「美的至上主義」
 とでもいえばいいのか、どのような方法であろうとも、美を至高のものとして奉ることに重きを置いているものである。
 それがたとえ殺人によって成し遂げられるものであっても、素晴らしい芸術には違いないという、歪な考えに基づくものだと言えるものだ。
 そういう変質者が実際にその時代には多かったのかどうかは、生きていたわけでもなく、資料として残っているわけではないので、検証できないが、少なくとも発想としてはあったということを、探偵小説は証明しているのだった。
 耽美主義というのは、探偵小説に限ったものではない。数多くの大衆文学に根強い嗜好を残し、さらに、純文学の分野においても、耽美主義が浸透していたのである。
「純文学系の作家」
 と呼ばれる人の中には、明らかに耽美主義を描いた作品も多くある。
 むしろ、耽美主義が作風であり、それを踏まえたうえで、その作家のジャンルが純文学ということで、、
「純文学作家が描く世界観の中に、耽美主義が存在している」
 と言っても過言ではないだろう。
 そんな時代の探偵小説を、辰巳刑事は好んで読んだ。
 当時は、本屋にはすでに、それらの作家の本は並んでいなかったようなので、図書館で借りてきて読んだり、実際に図書館で読んだり、さらには、古本屋を探したりしたものだった。
 二十年前でも、それほどの希少価値だった作品なので、今の若い人たちは、その頃の作品に触れることはなかなかないだろう。
「すでに、歴史という括りになりかけているのではないか?」
 と辰巳刑事は危惧していた。
 当時の耽美主義の作品というと、猟奇殺人というよりも、人間の中にある変質的な性格。例えば、SM嗜好であったり、どこかに潜んで、じっと見ていたりというような発想が多かった。
 今であれば、ストーカーということになるのだろうが、当時はそんな言葉もなければ、そういう趣味が犯罪として表に出てくるのともなかったのではないか。あくまでも探偵小説の世界であって、もし、そのような事件が発生すれば、新聞では大見出しになって、歴史的にも、凶悪な猟奇殺人として残っていることだろう。
 そういう意味では今の時代の方が犯罪としては酷いのかも知れない。少年による犯罪も増えてきて、犯罪の低年齢化が進んでいる。しかも、少年の方が犯罪に対しての歯止めがない場合がある。
 それは、マンガであったり、アニメの世界では、少々エログロの世界であっても、よほどひどいものでなければ、発行される。それが少年誌にも掲載される時代なので、少年と青年の垣根がなくなっているのかも知れない。
 ただ、少年というのはあくまでも少年であり、社会の構造など分かっていない。それなのに、今の子供の気の毒なことは、大人の都合で子供の人生が大きく変わることがあるということである。
 苛めや家庭内暴力などに始まって、今は親による子供の虐待などが蔓延っている。
 児童相談所が学校などから相談を受け、訪問したとしても、出てくるのは加害者である親である。子供に面会もさせず、親のエゴだけで、まるで子供を飼っているかのような状態だ。
「食わしてやっているんだから」
 という思いが強いからなのか、普通に考えればありえない犯罪が横行しているのだ。
 実際に、
「家で、子供がぐったりしている」
 と言って、救急車や警察に通報してくると、時すでに遅しということも多いようだ、
 身体を見ると気らかな虐待の証拠があり、数日後には親が、子供の虐待で逮捕されるなどというのが結構多い。
 そんな場合には、児童相談所が何度か足を運んでいたにも関わらず、こんなことになってしまったということがほとんどだったりする。
 どこかに歯止めになりそうな、犯罪を防ぐことができたのかも知れないと言っている人もいるが、それは表面しか見ていない人ではないだろうか。
「結局、いつこのようなことになるかということだけで、結果は見えていた」
 という人もいる。
「もし、児童相談所で子供を預かったとしても、その時はまだそこまで過激なことはなかったら、また子供は親に戻されるだろう。ほんの少し時間稼ぎができただけで、結局は結果は同じになっていたはずなんだ」
 と言われてしまうと、
「こういうことは、まるでトカゲの尻尾切りのようで、防ぎようがないのか?」
 という人に対して、
「だから社会問題なんだよ。目の前だけのことしか考えずに、根本を見なければ、こういうことはなくならないんだ。だから、我々のような研究家が存在するんだよ」
 と、評論家はいう。
 体制に問題があるのか、それとも、連鎖反応となっていることが問題なのか、評論家の人の話を訊いていると、どこに問題があるのかから入るようだ。これは虐待問題に限らず、少年犯罪の問題。今までのオーソドックスな大人による犯罪など、すべてのことに言えるのかも知れないと、辰巳刑事は考えた。
 しかし、考えれば考えるほど、理不尽である。事件を解決しても、次から次へと犯罪は出てくる。
「人間というのは、そもそも理不尽にできているんだろうか」
 と思う。
「人間は、生まれながらに平等だ」
 などという言葉を聞くが、そんなものはただの理想論でしかない、
「人間は生れてくる時に自由があるわけではない。親を選ぶことができないからだ」
 と言われるではないか。
 親が金持ちだったり、王様という人もいるだろう、かたや、親が犯罪者であったり、借金に追われている人もいるだろう。生まれながらに平等などという発想は、都市伝説でしかなく、ありえないことの代名詞と言ってもいいだろう。
 そんな人間を、一つの同じ法律で縛ろうというのだから、社会自体が矛盾と理不尽に包まれていると言ってもいい。だから、国家にはいろいろな主義がある。
 国家は国民を縛ることなく、自由主義で、民主的な体制であるが、これは聞こえはいいが、実際には
「差別や不平等には目を瞑る」
 ということでもある。
 人それぞれに考えがあり、やりたいことがあるのだが、いくら自由主義と言ってもそれができるわけではない。法律に縛られるわけだが、その法律を決めるにも、国民の代表として政治家が法律を制定する。
 政治家を決めるのも、法律を制定するのに、決を採るのも、民主主義では、
「多数決」
 が基本である。
 これは、国民の政治参加者(つまりは選挙権があり、政治家を決めることができる人たちの中で選挙に参加した人)の過半数で決まるものである。
作品名:時間の螺旋階段 作家名:森本晃次