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時間の螺旋階段

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「監督が一番偉い」
 という意識があるので、主演の自分は監督までも自分であることに気づかないのだろう。
 気付いているとすれば、主演女優は監督を意識するだろうし、そうなると、夢を見ているこちらに気付いていることも分かるだろう。
 しかし、もしそのことを夢を見ている自分が気付いたとすれば、どう思うだろう?
 きっと気持ち悪いという意識になるに違いない。夢を見ているということは、主演の自分に気づかれないように、監督していることであり、主演の自分こそが無意識であり、その行動が潜在意識のなせる業なのだろう。
 だから、夢というものが、
「潜在意識が見せるものだ」
 という考えであるとすれば、あながち間違っているわけではなく、主演の自分がそれを証明してくれているということになるのだろう。
 夢というものを考えていると、
「麦芽夢を食べるならば、時間を食べるものが存在してもいいのではないか?」
 と思った。
 しかし、あの老人のいうように、さすがに店が時間を食べるという理屈はどこかおかしい。
 だが、それは何かのたとえであって、あの老人が頭のキレる人で、何かの暗示を私たちに示しているのだとすると、どういうことになるのだろう?
 横を見ると、京極氏は何事もなかったように、酒を飲んでいる。
――ということは、あの老人のことを気にしているのは、私だけだということか?
 マスターも何事もなかったように接客している。京極氏と、何か大人の話をしているようだが、つかさにはその話の内容は分からなかった。何か経営に関しての話なのだろうが、たった今まで老人のことを気にしていたので、まわりがまったく見えていなかったのは、つかさだったのかも知れない。
 いまさら二人の話に自分から入っていくのも少し変な気がした。つかさは、中途半端なところで取り残された気がしていたが、それもしょうがない。
――じゃあ、またさっきの老人を思い返すしかないじゃないの――
 と、不満ではあったが、分からない話に首を突っ込むよりもいいかも知れない。
 しかし、それにしても、京極氏もマスターもあんな不思議な老人をよく無視できるものだと思った。
 それだけ慣れているということか?
 確かに老人が常連で、いつも同じことを言っているのだとすれば、ひょっとすると、二人とも老人が何を言おうとしているのかが分かっているのかも知れない。
 分かっているから、
「ああ、また始まった」
 というくらいにしか考えていないとすれば、やはり老人に対しても置いて行かれているのは自分だけではないだろうか。
 つかさは、
「時間を食べる店」
 という言葉を思い起こしてみた。
「時間……。何か思い浮かぶことはないだろうか?」
 と考えていると、最初に浮かんできたのは、
「時は金なり」
 という言葉だった。
 そうだ、時は金なんだ。金を食べるという発想も成り立つではないか。金が食べるものではないが、食べるために必要ものが金である。つまり、金と食べることは切っても切り離せないということではないか。
 そう思うと、時を食べるという言葉が、まるで、
「わらしべ長者」
 や、
「風が吹くと桶屋が儲かる」
 という言葉に表されるように、
「途中に何かが挟まることで、まったく繋がっていなかった話が一本の線になって繋がるのではないだろうか?」
 と考えるのであった。
 老人は、なにかを言いたかったのだ。だが、その言いたかったことが何を意味しているのかまでは分からない。
 それをつかさに考えろということなのだとすれば、ここにいる二人はただのエキストラであるのだろう。
「主役はあくまでも、つかさである。そして、監督もつかさだとすれば、あの老人は、私に監督もやれと言っていることになるんじゃないのかしら?」
 と思うのだった。
 途中に抜けているものが何なのか、そして。夢の続きがどこに出てくるのか。さらに、時と、時間、そして、食べるということがどのように繋がってくるのか、今のところまったく分からなかった。
 それもそうだろう。実際にはまだ何も起こっているわけではなかったからだ。ただ、それは、
「つかさにとって」
 という意味でだけで、時間軸のずれは、これから、つかさを時間の渦の中に巻き込んでいくのだった。
 つかさが、この時、編集者のスカウトである京極氏の話を、ほぼ承諾する形でいた。そして、少し先ほどの老人の話が気になってはいたが、気になっていることで、余計に、自分が今、カメラの前でグラビアアイドルとして輝きを放っている姿を想像、いや、妄想していたと言っても過言ではない。
 実際に、スポットライトがどのようなものなのか以前、舞台になったことのある友達から聞かされたことがあった。
「舞台の上って、本当に何も見えないのよ。だって、客席は暗くて、舞台は明るいのよ。想像すれば分かることでしょう?」
 と言われて想像してみたが、その話を訊いている時はまったく分からなかった。
 分からないというと、失礼に当たると思ったので、何となく頷いていたが、話を訊いて冷静に考えてみると、マジックミラーのようなものかと思うと何となく想像がついた。もっといえば、夜中の電車に乗っていて、車窓から外がまともに見えないが、表からだと、中の様子がよく分かるのと同じ発想だと言ってもいい。
 そう思って、自分が舞台の上に上がると、目の前にいるはずの観客がどのような表情をしているのか分からない。声だけは湧いているのが聞こえても、それが歓喜によるものなのか、驚愕によるものなのか分からない。普段であれば分かることも、
「まわりから見られているのに、こちらから覗いているという意識がないということを考えると、緊張からか、聞こえるはずのものがまったく違った形に聞こえてくるのではないか」
 と思うと、舞台の上というところが、どれほど想像を絶するもので怖いものなのかを思い知らされるだろう。
 何よりも、客席から見ていると、光を浴びて輝いているように見えるその人に、少なからずの嫉妬があるだろう。
 しかし、舞台の上にいる人には、何も見えないことで、自分が完全に孤立してしまっていると思い込むのではないだろうか。
 客席から見ていて、光り輝いてはいるが、見ている方も嫉妬心からか、
「どうせ光り輝いているように見えても、しょせん孤独なんだ。こっちの世界に帰ってこようと思っても、帰ってくることなんかできやしないんだ」
 と感じるに違いない。
 それを思うと、グラビアアイドルは逆に孤独ではない。孤独になるのはあくまでも、ファインダーに映っている自分であって、それを見ている自分ではない。
 夢の世界に、主人公の自分と、監督である自分の二人が存在するのも、そういう理由からなのではないだろうか。
 孤独な自分は必ずどこかに存在し、それは本当の自分ではなく、本当の自分は、その孤独な自分を見つめることで、
「私は、孤独ではないんだ」
 と思うようになるのだ。
 それは、夢の世界に限ったことではない。この世界であっても同じではないだろうか。同じ次元に存在できないとすれば、別次元が存在しそこに孤立した自分がいるのだ。
 そうなると、
作品名:時間の螺旋階段 作家名:森本晃次