時間の螺旋階段
「この店で、見たものを記憶や意識として残しておくことってできないのかしら?」
と思ったほどだ。
元々あまり飲めるほうではないつかさは、カクテルがどれほどのものかあまりよく分からなかった。まるでジュースが入っているようにしか見えないので、最初に一口は少し多めに飲んでしまったが、すぐに、酔いが回ってくるような気がして、
「やっぱり、お酒じゃないか」
と、当たり前のことを思わせた。
だが、その一口が口の中に残ってしまい、二口目、三口目は結構早かったような気がする。
気が付けば、すでに酔っぱらってしまっているようだったが、飲みかけのグラスを見る限り、それ以上飲んだという意識はない。つまり、そこから自分の時間が止まってしまったかのような感覚だった。
「自分だけの時間が止まるなんてありえないことを考えてしまって、私ってどうかしているわ」
と思った次の瞬間、目の前にいたはずの老人がいなくなっていることに気づいたのだった。
グラビアの話が終わってから、老人がいないということに気づくまでに何があったのか、ゆっくり考えてみると、そういう経過だったということが意識の中に残っていた。
そう、意識としてはある程度残っているのだ。気が付けば時間が過ぎていたわけではない。
そうなると、意識があった時間に、その老人がどこに行ってしまったのかを考えるというのは不可能ではないか。それよりも、最初からいなかったと思う方が実は自然だったのではないかと思った。
しかし、この満腹感は何であろう? あの老人が言ったではないか、
「時間を食べる」
と……。
つかさは時間を食べたことで、満腹になったというのか?
いや、あの老人が言ったのは、時間を食べるのは店であって、客ではない。つまりはつかさではないということだ。
何かつかさの中で無意識に覚えていたことと、今の現実とが不思議な融合で結び付いたことでもあるのかも知れない。そもそも、そのような現象を待ちわびていたかのようにさえ思えた。
「まるで夢を見ているようだわ」
と思ったが、そうではない。
夢に見たことを今思い出しているような気がするというのが正直な気持ちなのかも知れない。
それを思うと、このスナックの中では、今ここに三人がいることになっているが、つかさとマスターと京極氏、
「本当に皆同じ次元に存在しているのだろうか?」
などという妄想が頭を巡った。
つかさは以前から妄想が好きだった。そして一旦妄想を始めると、何かのきっかけで我に返るまで、妄想を限りなく続けてしまう。
果てしない先まで行ってしまうこともあるが、途中で戻ってきて、ループに入ることがある。いわゆる、
「無限ループ」
である。
――ひょっとして、その感覚が、あの老人には、時間を食べるという意識に繋がったのだろうか?
いたかどうかもハッキリしない老人に自分の意識を重ねることで、自分を理解しようと考えるつかさだったが、この感覚は、
「最近の夢に見たことだったのかも知れない」
と感じた。
それだと、一種の予知夢になるのではないかと思ったが、逆も考えてみた。つまり、
「今後見る予定の夢を、うつつという現実の中の夢の中で、見てしまったのではないか?」
という発想であった。
自分で考えておきながら、どう解釈していいのか、自分でもよく分かっていなかった。
「夢うつつ」
という言葉があるが。うつつのことを、
「起きているのに見る夢の存在を表す言葉として使う」
という感覚になったのは、
「予知夢や正夢という発想があるのであれば、予知夢が普通に見た夢の出来事であるなら。正夢は、現実の中で見た夢が現実になった場合のことをいうのではないか?」
と感じたからだった。
予知夢と正夢、発想としては似ているように思うが、その言葉を解釈していると、どうも、同じところから出発しているわりには、発想がかけ離れているような気がするというところから感じたことであった。
何をどう解釈していいのか分からないということは結構あるだろう。そんな場合には意外と直感に頼るというのもありなのではないかと思う。その例として、予知夢と正夢の発想があるのではないだろうか?
「それにしても、時間を食べるというのはどういうことなのだろう? 夢を食べると言われる動物としては、獏がいるが、それと似たようなものなのだろうか?」
と考えた。
夢という発想から考えてみようか?
夢というのは、
「潜在意識が見せるものだ」
と言われているが、そもそも潜在意識というのが、どういうものであるかというこである。
意識というものには、潜在意識と顕在意識というものがあると言われている。顕在意識というのは、いわゆる人が考えたり感じたりしている意識のことで、言い方を変えると、
「目に見える意識」
と言えるのではないだろうか。
それでは、潜在意識というのは、その逆だと考えられる。つまりは、
「目に見えない意識」
それを無意識というのだとすると、無意識に見るものだという。
確かにそうだ。夢というものは自分の思い通りに見れるものではなく、しかも目が覚めていくにしたがって都合がいいのか悪いのか。忘れていくものではないか。
それを考えると、夢は自分の意識外のものだとも言える。
だが、逆の考え方もできる。
夢というものが、自分の思い通りにならないものだということの説明として、
「意識の外で起こっていること」
として、都合のいい言葉である潜在意識を利用しているのではないかとも考えられる。
後者の方も信憑性としては、十分にあるものではないだろうか。
だからこそ、夢には現実の世界にないものがあったり、あるはずのものがなかったり、曖昧だったりする。時間というのも、そういう曖昧なものとして考えることができるのではないだろうか。
「夢というのは、どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒の間にすべて見切ってしまうものだ」
という話を訊いたことがある。
つまり、時間という概念がそもそもないのではないか。
確かに夢から覚めようとしている時、忘れていくのは、時間の概念がないからではないかとおもうのは突飛すぎる考えであろうか。
さらに、時間のねじれも感じることがある。
例えば自分がいる場所が通っていた大学だったとして、意識の中では、
「私は、就職はできなかったけど、ちゃんと卒業はできたんだ」
という意識があるのに、夢に出てくる自分は大学生である。
そこに、友達がキャンパスを歩いてくるのだが。皆スーツや、OLの恰好をして、さっそうと社会人をやっている。
夢の中の自分はというと、
「そろそろ、アルバイトに行かなければいけない時間だわ」
ということで、学校から、今のアルバイト先のファミレスに行こうとしているのだ。
夢に出ている自分はまったく違和感がなさそうなのだが、実は意識しているのは、
「夢を見ている自分」
なのだ。
夢というのは、夢の中の主人公が常に自分なのかどうかまではハッキリとはしないが、夢を見ている自分がいるのは間違いない。
要するに、
「主演女優でありながら、監督も務めている」
ということである。
しかも、頭の中で、