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記憶喪失と表裏

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 テレビドラマでは、ラブロマンスのような話であったが、この脚本はあ、SFというか、オカルトに近い話だっただけに、実際に起こってしまうと、リアル感しかないに違いないだろう。

              矛盾とパラソックス

 今から四十年くらい前だと、映画などで上映されるようなSF作品も結構本になったりしていた。
 SFブームだったと言ってもいいのかも知れないが、SF作家として一世を風靡した作家もたくさんいた。専門的にSFばかりを書いている作家もいたが、どちらかというと、他のジャンルを専門に書いていた作家が、SFにも手を出すという形が増えてきた。
 そのせいもあってか、SFブームというのは、それほど長続きするものではなく、作品としても、それほど多いものではないだろう。
 それよりも何よりも、SF作品について、SF専門に書いていた作家が書いたエッセイを読んだことがあったが、SFがあまり流行しなかった理由を彼なりに分析していた。
「SF作品の中の、テーマになりそうなことは、それほどないのかも知れない。例えば、ロボットものであったり、タイムマシンを使ったタイムスリップもの、あるいは、機械を使うことなく、主人公が異世界に入り込むというもの。最後のものは、オカルトであったり、ファンタジーとして別の作品を描くことがあるが、SFとして、それらの作品を描こうとすると、どうしても、限界にぶち当たることがある。そこを限界として素直に描くか、あるいは、そこから先を別のテーマとして扱うかというところで、作風と内容がゴロっと変わってくるというものだ」
 と、書かれていた。
 ここから先は、結構学問的な書き方をしていたが、
「なるほど」
 と思わせる部分が結構あった。
 要するに、SF的な発想を司るテーマというのは、、
「現実的に可能なものなのだろうか?」
 というところから始まる。
 もちろん、実現可能だということを前提に書くわけだが、そこに至るまでの過程が小説になるのだ。しかし、実際にそこに限界があるのだとなれば前提が変わってくる。そこを敢えて書くというのであれば、それは、挑戦ということになるのではないだろうか。
 例えば、まずは、タイムマシンの話からであるが、タイムマシンというのは、昔からよく言われることで、
「タイムパラドックス」
 と言われているものがある。
 これは、タイムマシンができてから、過去に行く場合などがよくたとえ話になるのであるが、
「例えば、自分がまだ生まれる前の過去に戻ったとしよう。そこで自分の親になるはずの母親を殺してしまったとすればどうなるのだろうk?」
 というのが、一番分かりやすい話である。
「となると、少なくとも自分が生まれてくることはなくなるわけである。ということは、生まれてくるはずのない自分が、タイムマシンに乗って、過去に行くことがないとすれば、そのまま歴史は何も変わらず、自分が生まれてくることになる。だが、生まれてきた以上、大きくなってタイムマシンを使って、親を殺す……」
 と、こういうことになると、まったく矛盾した話になるわけだ。
 一種の、
「メビウスの輪」
 のようではないか。
 メビウスの輪というのも、一つの帯のようなものを捻じれた形で線を引くのだが、その線が最終的に交わるというものではなかっただろうか?
 矛盾したものが、同じ世界、同じ次元に存在すること、それをパラドックスという言葉で表しているということなのであろう。
 タイムマシンにおける時間と空間、さらに次元の溝のようなものへの発想は、今までにいろいろな科学者、物理学者によって創造されてきた。
 アインシュタインの、相対性理論などは、その最たるものではないだろうか。アインシュタインというと、十九世紀から二十世紀に掛けての人物であり、少なくとも近代史に名を遺す人である。しかし、この相対性理論を、かなり昔に考えていたのではないかと思われる話が伝わっていたりしないだろうか。それも日本でである。
 昔のおとぎ話の中にある、浦島太郎の話、これこそ、タイムマシンやタイムパラドックスの話の原点ではないだろうか。
 おとぎ話がたくさん書かれている、御伽草子は室町時代だというから、今から、六百年くらい前になるのだろうか。
 浦島太郎の話というと、ほとんどの人が知っていて、知らない日本人はいないのではないかと思える。話を少し端折った形で話すと、
 海辺で子供たちから苛められていた亀を助けたことで、浦島太郎は、カメの背中に乗って竜宮城というところへ行き、そこで歓迎を受け、三日三晩くらい、大宴会が行われたというのだが、浦島太郎が、故郷を懐かしがったので、乙姫様から、決して開けてはいけないと言われた玉手箱を貰って、元の世界に戻ってくると、そこは自分のまったく知らない世界で、自分が知っている人を一人も見つけることができなかった。そこで落胆した浦島太郎が、玉手箱を開けたことで、おじいさんになってしまった」
 というようなお話だったはずだ。
 しかし、この話には突っ込みどころがたくさんある。
 まず一つは、乙姫様の行動だが、
「決して開けてはいけない」
 という箱を、どうしてお土産でも渡すかのように、挙げてしまうのかということである。
 決して開けてはいけないものなら、持たせる必要もない。荷物になるだけだからである。
言っていることと、やっていることがまったく正反対だという矛盾である。
 もう一つは、カメを助けた時、海の底にある竜宮城に、カメの背中に乗って行ったということだが、よく窒息しなかったものである。しかも、行きもそうだが、帰りについては言及していなかったが、やはりカメに乗って地上に行ったのであろう。つまり、窒息しないような仕掛けが施されている? まるで潜水艦のようなものが存在していて、海と地上を、自由に行き来できたということであろうか。
 さてもう一つ、これが一番浦島太郎の話の中で問題となることだが、
「カメを助けたという、いいことをしたはずの浦島太郎が、最後にはなぜ、悲劇のヒーローにならなければいけなかったのか?」
 ということである。
 他のおとぎ話の中でも、このような矛盾と思われるような結末はあまりないと思われるのだが、どうなのだろう?
 気になって調べてみると、どうやら、浦島太郎のお話には続きがあるという。
 浦島太郎が、玉手箱を開けて、途方に暮れているところに、乙姫様が追いかけてきたという。
 乙姫様は浦島太郎のことを好きになって、浦島太郎を追いかけて、お互いに、鶴亀になって、永遠の幸福を手に入れたというハッピーエンドであった。
 だが、ここにも考え方によっては、大きな矛盾を秘めていることになる。
 もし、これがハッピーエンドなのだとすれば、乙姫様は、どういう風に理解すればいいというのか、そもそもあの玉手箱は何だったのか? ただ、おじいさんにするだけではないか。何ら意味のないものだ。それをわざわざ、これ見よがしにお爺さんにしなくてもいいようなものではないか。
 しかも、言われている話としては、
「開けてはいけないというものを開けたことで、ハッピーエンドはあり得ない」
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次