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記憶喪失と表裏

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 だから、秋から翌年の春までの間、芝生が見れない時期というのは結構あり、半分まではないが、人によっては、
「冬のこの時期は、いつ来てもシートが張ってある、だから、年中、シートが外されるようなことはないんじゃないか?」
 と思っている人も多いのかも知れない。
 そんなことを思っていると、この時期も、恒例のシートで被う時期がやってきた、
「そういえば、数年前は一年間くらい、ずっとこの公園が封鎖された時期があったんだよな」
 と、菜々美は思いにふけっていた。
 そう、あれは、緊急事態を発したことにより、夜間の酒の提供が飲食店でできなくなり、しかも飲酒厳禁の中で、飲食店すら時短営業を強いられていた時期だったので、一ぼの不心得者たちが、
「それなら、夜の公園で酒を買い込んで宴会すればいい」
 と、この体制の意味を知ってか知らずか、バカ騒ぎを連日していた。
 たぶん、あの連中だって、この措置の意味くらいは分かっていたのだろうが、それよりも政府が迷走していることで、もうすでに市民gいうことを聞かなくなったのが原因だった。
 法的拘束もない。しかも、お願いするだけの、実に弱い政府に対し、その連中はバカにしていたのかも知れない。
 そういう意味では、政府も、一部の不心得者も、五十歩百歩なくせに、お互いを毛嫌いしあっているというのは、はた目から見ていて、これほど滑稽なものはないのかも知れない。
 そんなことだから、あの悪夢だった時代がなかなか収束するわけもなかった。
「本当に奇跡でも起こらなければ」
 と言っていると奇跡が起こった。
 それは、まるで、元寇に責められた時に、台風によっての元軍を退けたといわれる、いわゆる、
「神風」
 の類だった。
 本当にそれでよかったのかどうか、これも歴史が答えを出すことになるのだろうが、過去の歴史ではろくなことはなかった。
 立憲君主の時代には、
「日本は紙の国であり、元首としての天皇陛下がおられる」
 ということで、世の中はその言葉を信じ込んでしまうという体制ができてしまった。
 政府からすれば、恰好のプロパガンダであった。自分たちが、この世でいかに人民を掌握していくか、あるいは、洗脳し、マインドコントロールしていくか、それが全体主義となって、ファシズムに近づいていくのかも知れない。
 だから、
「神風特攻隊」
 などということになってしまうのだ。
 戦争ということだけにか限って言えば、戦術としては、しょうがないところがあるのだろうが、そんなものを作る前に、戦争を終結させる機会はいくらもあったはずであり、終わらせることができなかったことが、生んだ悲劇と言っても過言ではないだろう、
 そんな時代の人間たちは、その主義の良し悪しは別にして、生きるということに一生懸命だったはずだ。
「明日に命がある保証はない」
 という毎日を過ごしてきたのだから、とっくに覚悟もしているだろうし、
「国家のため」
 という意思があるから、できたことだろう。
 しかし、同じ緊急時代の中でのあのバカ騒ぎはどうだ?
「俺たちが死ぬわけはない」
 とでも思っているのか、確かにやつらは死ぬことはないかも知れないが、やつらがばらまくことで死ぬ人がたくさん出てくるかも知れないということを、まったく意識しないのだ。
 それも、
「自分たちさえよければ、自分たちさえ死ななければいいんだ」
 ということなのだろう。
 もし、誰かが交通事故に遭ったとして、救急車を呼ぼうとするのだが、救急絵センターに電話を入れても、
「今使える救急車が一台もないので」
 と言って、断られるということもあったりした。
 また、運よく救急車がやってきても、今度は受け入れてくれる病院がないのだ。出血多量で、そのまま救急車の中で息を引き取るなどということもあったりした。
 いよいよ末期の症状になってきたと思わせたのは、都市によっては、街中のいたるところで、死んだ人がゴロゴロと転がっているのだ。
 病院はすでに受け入れられる状態ではない。保健所もいっぱいだ。火葬しようにも火葬も間に合わない。したがって、死体をそのまま放置するしかない。できるすれば、避難所になりそうなところに死体を集めて、その場に放置し、火葬ができるようになってから、火葬を行うということだった。
 救急車が足りなくなって、病院がひっ迫してくるようになってから、このような状態に陥るまでというのは、実にあっという間だった。
 さすがにその頃になると、あの不心得者の連中も、事の重大さに気づき、顔を真っ青にしていた、
 そういう連中に限って、その街から逃げ出すのだった。
 しょせんバカな連中だということは最初から分かっていたので、
「どこに逃げたって、同じ光景を見るだけなのに」
 と、内心では、
「ざまあみろ」
 と思っていることだろう。
 もう、あの連中のせいで、自分たちの街はおろか、まわりの街も壊滅状態。何をどうしていいのか分からないのは、皆同じことだった。
 そんな時代を生き抜いてきたのは、自分だけではないと思うのだが、何かを考えていると、どうしても、その時の記憶がよみがえってきて、怒りがこみあげてくるのだ。
「他の人はあの時のことをどのような意識で記憶しているのだろうか?」
 菜々美はそんなことを考えて、芝居の稽古をしていた、まだ、舞台を踏めるわけではないので、自分は、今まで演じられてきたかつての芝居の台本を見ながら、
「自分が主人公だったり」
 あるいは、
「この人物を演じるとしたら?」
 ということを考えながら、演技をしていることを想像していたのだった。
 今はいくつかの過去の上映作品の台本を持って帰り、家で見てみたり、会社の休憩時間に見てみたりした。
 夜になると、人が減ってきて、シートの中で稽古をする時の台本であった。
 そんな作品の中に、少し気になる作品があった。だが、それは一つだけを見ているだけでは分かりにくいものであり、一つの作品を読み終わって、次の作品を読み進むにつれて、
「あれ? このお話が?」
 と感じるものがあったのは、その二つの作品が示しているものは、ここ数年の問題になっていたことへの警鐘を鳴らすかのようなものだった。
 作成年月を見ると、
「平成二十九年八月」
 となっている。
 つまり、禍の根すら表に出ていなかった頃に書かれた作品で、もし、あれがなければ、フィクションとして。
「うまく表現されたいい作品だ」
 ということになっているのだろうが、あの時代を通り越してきた人間にとって、この台本は、まるで、予言書のように思うくらいであった。
 しかも、数十年後の未来などという話ではなく、この台本が書かれてから、世界的な問題となったのは、一年くらいしか経っていなかった。それを思うと、
「この台本を書いた人には何か予知能力のようなものがあったのかも知れない」
 という、憶測めいたものが起こっていたことだろう。
 ただ、テレビドラマなどでは、ここまでリアルな感じはないが、似たような発想を思わせるものがあった。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次