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記憶喪失と表裏

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 しかも、日本は一度、立憲君主国から、民主主義国家に生まれ変わったという歴史がある。
 その歴史は日本人が作ったものではなく、いわゆる「戦勝国」と呼ばれる国々から、押し付けられた民主主義である。
「勝者の理論」
 での押し付けは、混乱も招いたが、ある程度混乱を招いただけで、隣の国のように分裂することもなく、今では、
「戦争のない国」
 となっていた。
 それがどこまで本当によかったのかというと、まだ歴史は答えを出していないようだが、軍国主義にいたり、日本が歩まなければいけなかった限界が、敗戦という形で、国家をリセットすることになったのだ。
 ただ、一つ言えることは、
「今、本当に見なければいけないことが見えているのだろうか?」
 ということであった。
 そんなことばかり考えていると、
「菜々美さんはいろいろ考えすぎなんだよ」
 と、先輩からよく言われてしまう。
 入団してから、最初の頃は、
「まだ、入団して慣れていないわりには、覚えがいいのかも知れないね」
 と、団長から言われていたが、慣れてくるくらいだろうか、どこかあまりうまくいかなくなってきているようだった。
 何がよくないのか、自分でも分からない。しかも、歯車が合っていないということをまわりも意識しているが、まわりの意識の度合いよりも、自分で感じている意識の度合いの方がかなり幅が広いのではないかと思えるのだった。
 それがどこから来るのか分からなかった、それを先輩からの指摘で、
「考えすぎだ」
 と言われるということを、まったく想像もしていなかった。
 確かにいつも、いろいろ考えているという意識もないわけではなかったが、考えすぎが、まるで災いしているかのような言われ方は、
――自分で言うなら分かるけど、他人に分かるのかしら?
 と思わせるところがあった、
 だが、それこそ自分で感じるよりも他人が感じることの方が多く、それを指摘してくれるということは、それだけ自分が劇団の中で重要なポジションになりかかっているかということの表れでもあろう。
 そうでなければ、わざわざ嫌われるかもしれないようなことを、自ら言うわけもない。それを口したということは、よほどの確信がなければ言えることではなく、
「他人が指摘することでもないのかも知れない」
 ということを十分に理解していると思っているにも関わらずであることは、菜々美にも分かっていることだった。
 確かにいきなり言われれば、普通なら、
「他人になんかわかるわけはない」
 と、頑なになって、殻に閉じこもるかも知れないレベルの問題のような気がする。
 これは客観的に考えてもそうなのであって、頑なということが、いかに自分にとって、そんな役回りになるかということを考えると、
「誰が損なのか?」
 ということにもなりかねない。
 そう思うと、分かっていても、決して言えないだろう。友達関係ではなくなり、しかも、遺恨が残ってしまったり、それによって、他の人からも違和感を持たれるようになると、まったく得をしない、損ばかりの結果になるだろう。
 しかも、重要なのは、相手がちゃんとそのことを自覚しているかということと、その人の性格とのバランスでもある。
「自分でも気づかなかったようなことを指摘してくれて、本当の親友でもなければ、できないことだ」
 と賛美を感じてくれるのか、それとも、
「知らぬが仏という言葉もあるのに、余計なことw言って、おかげで気分が悪くなってしまった」
 と、どんどん悪い方に考えてしまうだけの効力を十分に持ってしまう可能性だってあるのだ。
 それを思うと、言ってしまうことの方が明らかにリスクが大きい。しかも、そんなことをしてしまうと、劇団のような団体の結束が必要とされるところは、却って全体がぎこちなくなり、思ったことを何も言えなくなってしまうという最悪の結果を招いてしまうことになるのではないだろうか。
 それを思うと、菜々美はまわりの皆が少しずつ、自分に対して、アドバイスを与えてくれるのはありがたかった。
 一人が代表で悪者になる必要もない。それに皆がそれぞれでアドバイスを与えてくれるというのは、皆が分かっているということだ。それを思うと、
「皆も、かつて同じようなことを感じたことがあるのかも知れない。つまりは、誰もが通る道を今通っているだけで、皆も先輩から似たようなアドバイスを受けていたのかも知れない」
 と感じた。
 そう思うと気が楽になってきた。
 プレッシャーのようなものは消えていくような気がして、それよりも、自分も皆と同じ道を辿っているとすれば、気を楽にして、感じていることを進んで行けばいいのかも知れないような気がしてきた。
「考えすぎないように」
 というアドバイスも、感じたことを進んで行けないいという言葉の裏返しではないかと思うのだった。
 それから少しして、劇団の講演がきまった。その中には菜々美の出番もあるようで、もちろん、ちょい役と呼ばれるもので、プレッシャーをそんなに感じるわけではないが、何しろ菜々美にとっては、デビューである。
 しかも、今まではステージに立ったことがないだけに、稽古では何度かステージに立つ練習はしてきたが、本格的な演劇をステージの上からやるのは、本当に最初であった、
 いきなりのデビューでは緊張するのは当たり前、どこかで自分なりに練習のできるところはないかと思っていた。
 菜々美が選んだのが、夜の公園だった。
 それでも、最初から公園で稽古をすると、散歩をしている人やジョギングをしている人、さらにはカップルからの視線を浴びることになる。
 ただ、幸いなことに、公園を利用する人というのは、それぞれに自分たちのことで精いっぱいであり、人が何をしていようとも気にならないものではないかと思っていた。
 一つ危惧するのは、そんな中で、少々でも大きな声を出して目立つような態度を取ると、露骨に嫌な顔をして、軽蔑に近い視線を投げかけてくるだろう。
 その視線というのが、
「邪魔されて困る」
 というものなのか、それとも、
「下手くそが、こんなところで稽古なんかするんじゃない」
 というものなのか、つまりは、自分たち中心の考えなのか、それとも、単純に相手への文句なのかというのは、視線から見抜くのは難しいかも知れない。
 そんなことを思っていると、
「私はどうすればいいんだろうか?」
 と考えるようになった。
 声を出さずに稽古はできないこともない。しかし、それだと公園でわざわざするのも意味がない。
 誰にも見えないところで、声を出せばいいかも知れないが、そんなところってあるだろうか?
 と考えたところで、
「そうだ、会社の近くの公園があるじゃないか。あそこならシートをかぶせてあるし、少々声を出しても、響かない。それに他の人から見られることもない」
 表から見た分には、結構な広さのしーろであった。
 普段は、芝生を敷き詰めた場所であり、
「市民の憩いの場」
 として君臨し、まわりがジョギングコースになるくらいの広さを持っていた。
 ここでは秋口から、春になる頃までの間、芝生の造営や、整備のために、十分な期間として、二週間封鎖してみたりするのを、何度か繰り返していた。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次