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記憶喪失と表裏

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 という映画が公開されたことがあったが、あの時に、どれほど旅順攻略が大変なことであったかを見せつけられたが、その後に起こった奉天会戦の方がどれほど大きな犠牲であったのかを考えると、市民が暴動を起こすのも仕方のないことだろう。
「英霊に恥ずかしいと思わんのか」
 と叫びたくもなるわけである。
この時の罪深さがどれほどのものであったかは分からないが、少なくともマスコミに問題がないということはないはずであろう。
 そういう意味で、日露戦争は、敗北らしきものはほとんどなかったが、逆に言えば、相手が強大すぎて、
「一つでも負ければ、そこで日本の敗戦は濃厚だった」
 というわけである。
 そういう意味で、結果論になるが、無敵だったのは当たり前ということである。
 それを知らない国民やマスコミが世間を煽る。
 特に中国という国は、当時の国民党の時代から、日本に対してかなりの虐待行動を繰り返していた。
「南京で大虐殺を日本は起こした」
 と言われているが、それ以前に中国側が起こした虐殺問題も少なくはない。
 暗殺も多く、許されることではなかった。
「南京大虐殺を引き合いに出すなら、『通州事件』を忘れたのか?」
 と言いたい。
 前の日までは、まるで家族のように親しくしていた人たちが、次の日には暴徒と化し、ここで文章にできるはずがないほどの残虐行為を繰り返した事実を棚に上げてというところである。
 日本が中国を蔑視し、
「暴支膺懲」
 という言葉をスローガンとして、戦うきっかけを作ったのは、そもそも忠告側のことだったではないか。
 そんな国を支援しようとする、欧米列強は、中国を助けようなどという気持ちはこれっぽちもなく、ただ、自分たちが持っている権益と、居留民の保護などを目的にしたのことだったのだ、
 そもそも、日華事変から、大東亜戦争にかけての戦争は、前述の暴支膺懲から始まり、欧米列強が、日本に対して、最初は、
「中国本土からの撤兵」
 を求めていただけだったが、何と言っても、日本とすれば、盧溝橋事件と、通州事件における決定的な暴支膺懲からは引き下がれなくなった。
 それでも、欧米列強は日本に対して、
「石油、鉄くずの全面輸出の禁止」
 という暴挙に出て、いわゆる経済制裁を加えてきた。
 ここにきて日本は、
「大東亜共栄圏」
 を軸に、アジアで対抗し、植民地となっているアジアの国を救うというスローガンを打ち立てることで、戦争に突っ切っていったのだ。
 政府の意向や軍の状態を分からずに、国民、国民だけでなく、マスコミまで、煽るものだから、戦争に一直線なのも当たり前というものだ。
 何しろ日本という国の民族性は、
「判官びいき」
 であり、
「勧善懲悪」
 という国民だからである。
「鬼畜米英、暴支膺懲」
 をスローガンとし、
「大東亜共栄圏の建設とい大義名分さえあれば、正義はこちらにあり」
 という考えであった。
 戦争に負けて、結局、最後には勝者の理論としての、極東国際軍事裁判にて、日本が悪かったのだと証明させられてしまったことで、日本国民のほとんどは、そういう教育を受けてきた人がほとんどだろう。
 こういう歴史を知っていた人がどれほどいるというのだろうか、歴史の教科書では、数行でしか書かれていないことであり、言葉だけを暗記するかのような歴史の授業、どこに判断材料があるというのか、
「歴史が必ず答えを出してくれる」
 と、かつての軍人などでそう言って自害していった人もいたが、情報操作が行われているようでは、答えを出す歴史というのも怪しいものである。
「歴史というのは、そこに住む民族が作っていくものだ」
 と言えるのであろうが、考える頭を操作されてしまっては、操作された歴史が生まれてくることになり、果たして信用できるものなのかどうか、これも実に怪しいものと言えるのではないか。
 菜々美は、ここ数年、特に、禍が世界を蹂躙し、政府に一縷の望みも掛けなくなった時、初めて歴史を勉強する気になった。
「歴史が答えを出してくれるという言葉を覚えていたので、逆に過去の歴史に学ぶというのもありではないか?」
 と考えたからである。

               公園のシート

 考えることと、自分がこれから成長のために進んでいかなければいけない道をいろいろ考えていると、どうしても、世の中に対しての不満になってしまうのは悪い癖であった。
 しかし、そこから歴史的な発想になるのは、自分では決して悪いことではなく、
「確かに歴史は、何かの答えを出す意味で、大切なことだ」
 と思うようになった。
 劇団で芝居をしていると、その背景の歴史を勉強することもよくある。世界史が多いのだが、どちらかというと菜々美は日本史が好きだった。
 昔は歴女と呼ばれる人たちが好きになる戦国時代をよく勉強したものだが、最近では、明治以降の歴史が好きであった。
 幕末などの新選組や、薩長の時代を好きな人もたくさんいる。坂本龍馬に憧れる人も多いだろう。
 確かに歴史の扉を開けるために奔走した人たちの歴史は大切な気がするが、実際に歴史を作ってきたのは、その後に生き残った人たちである、
 そういう意味では、伊藤博文、山形有朋などのような、
「維新の元勲」
 と呼ばれるような人たちが歴史を作ってきたと言ってもいい。
 日本人はどうしても判官びいきのために、新選組であったり、坂本龍馬、さらには、志長場で病に倒れた、高杉晋作、新選組の中の沖田総司のような人たちに人気が集中してしまうのだろう。
 そういう意味では、生き残った人たちは悪訳に近い。日本の夜明けを見て、その後の日本の礎を築いたのに、この違いはなんだというのだ。
 おそらく、自分の好きな歴史上の人物を中心として見るために、それ以降の歴史には興味がないのかも知れない。明治初期で自分の歴史を終わられてしまっているので、悪役のままに、意識されているのだろう。
 そういう意味では、歴史を勉強したり、好きな人を中心に見ていくと、どうしても、敵役というのが必要になってくる。それが維新の元勲であるというのは、皮肉なところであろうか。
 しかし、実際に歴史が進んで、昭和の時代になると、歴史を紡いできたはずなのに、いつの間にか、違う世界に入り込んでしまったような意識があるかも知れない。歴史を正しく理解していないと、
「年月が原因に違いない」
 と、理解できないことを、時間の経過のせいにして、理解しようとしない人には、
「歴史が好きだ」
 という言葉を言わないでもらいたいと思うくらいだった。
 だが、そうやって歴史を勉強していくと、限りがないということに気づかされる。その証拠に時間は進んでいるのだ。今日一日、十年分くらい勉強しても、今の時代に追いつくまでにどれほどの理解が必要になるというのか、しかも歴史というのは、今に近づけば近づくほど、勉強することは深くなってくる。
 それだけ情報が身近にあるからではないかと思うのだが、それだけたくさんの人が歴史に関わっていることが分かってくるからである。
 明治以降の歴史を勉強しようとしても、残っている書物などは結構限られた情報しか乗っていない。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次