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記憶喪失と表裏

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 そんな無能など誰もが最初から分かり切っていること、公表するしない以前の問題なのだ。そんなことを国民が分からないと思っているところが、やつらの甘いところである。一億人以上の人口の人間すべてを騙すことなどできるはずはない。民主主義の世の中なので、過半数以上であればそれでいいのだ。少数派意見は切り捨てられる。
「自由で平等な国家」
 というのが民主主義だとすれば、平等と差別という言葉は決して相反するものではないと言えるであろう。
 それぞれをいかに折版してうまく矛盾を少なくしていけるかというのが、民主政治の根幹なのだろう。
 残された国民はまるで原始時代のような感覚に陥った人が多いだろう。実際に、世の中が混乱の境地にあった時期は、混乱と不安、さらには、自分に対して、さらに他人に対しての疑心暗鬼。つまりは、誰の何を信じていいのか分からなくなってしまったということであった。
 前の日までは、こっちがいいと新聞に出ていたことが、その日の昼の放送では、
「昨日の情報はデマです。決して行動に移さないように」
 と言っても、時すでに遅しである。
 死というものがすぐそこまで迫ってきていて、信じられるものが何もなければ、マスゴミが公表した内容に飛びつくのも人間としての心理だろう。
 しかしすでにその頃はマスゴミの情報が、ほとんどあてにならないことも分かってきて。しかも、マスゴミの言うとおりにしてしまうと、ほとんどが犠牲者として名前を連ねることになっていた。
 もうそうなってくると、何を信じていいのか分からず、元々の根底にあった禍などよりも、世間の混乱の方が、社会の崩壊を加速していたのだ。
 だからそこ、あの状態が収まったのは、奇跡と言えるであろう。
 さすがにそんな状態から社会が元に戻るまで、そんなに簡単に行くわけもない。
 まず当時の政府は、この禍を止めることができなかったということで、責任を取って退陣することになった。
 ただ、それも、
 「往生際の悪さ」
 もハンパではなく、
 野党から不信任案が出ようとも、国民から叩かれようとも、辞任に追い込むことはできなかった。
 だが、その状況に鉄槌をぶち込んだのは、天皇だった。
「現政権の責任は、如何ともしかがき、是非もなく」
 と言ったものだから、あれだけ往生際の悪かった連中が、その翌日には内閣総辞職をしたのであった。
 普通であれば、天皇が口を出すことはいけないことであったが、それによって国民が救われたのは確かであった。
 ただ、その政権がなぜ国民を敵に回してまで権力の座にしがみつこうとしたのか、あるいは、なぜ、そんな政府が、天皇の一言で、こんなに簡単に総辞職をしたのかは、まったくのなぞであった。
 ネットではいろいろ言われたが、あまりにも情報が少なかった。なぜなら、あれだけ騒ぐマスゴミの連中が、この件に関してはまったくの緘口令を敷いたからである。
 本当にマスゴミというのは、いい加減なものである。
 考えてみれば、大日本帝国時代だってそうではないか。
 戦前には、国民を戦争に煽って煽って、
「天下無敵の日本軍」
 をいかにも宣伝していた。
 確かに、天下無敵ではあった。
 日清戦争では、ほぼ負け知らずの快進撃であった、日露戦争ではかなり様子が違っていたのだが、確かに無敵ではあった。
 ただ、日露戦争の場合は、相手は世界有数の大国、ロシアである。眠れる獅子と言われ、列強から食い物にされた上に、国家予算は戦争に使えるほどではなく、兵器のほとんどが老朽化していた清国相手というわけにはいかない。
「薄氷を踏むような勝利」
 などという生易しいものではなかった。
 戦争の中にあるいくつかあるターニングポイントで、一つでも間違っていれば、負けていたという状態で、そのすべてに勝利した。これは、戦力どうのというだけではない、運も大いに味方した証拠だろう。
 ただ、運が味方してくれるようになるには、運が味方してくれただけでひっくり返るくらいのお膳立てが整っていなければいけなかった。
 つまり、日本は、あらゆる可能性、あらゆる場面を想定し、さらに、先の先を詠んだ作戦を立てておかなければ、いけないということである。
 その一番のいい例が、日英同盟の締結であっただろう。
 もっとも、日露戦争に踏み切るだけの大前提として、日英同盟がなければ、さすがに戦争を起こすということだけでも自殺行為だっただろう。
 さすがに日本も分かっていたはずだ。
「モスクワまで攻めて行って、占領するというような相手を屈服させるのだけが戦争ではない。個々の戦でそれなりに戦果を出して、有利になったところで、第三国に調停してもらって、講和条約を有利に結ぶ」
 これしかないということであった。
 ロシアの南下政策に対しての共通の懸念を抱いていたイギリスとの同盟締結は、当時、どこの国とも軍事条約を結ぶことのなかったイギリスにとっての初めての同盟国であり、共通の敵ロシアをけん制するという意味でも大きなことだった。
 何とか日本陸軍は旅順港の艦隊閉塞作戦には失敗したが、二〇三高地攻略で、艦隊撃滅に成功した。いざやってくるバルチック艦隊との決戦のため、ここで日英同盟が役立つことになる。
 バルチック艦隊がバルト海を出発して、公海上を日本に向かうには、ヨーロッパ、アフリカを迂回し、さらにインド洋を東に向かって、シンガポールを北上するコースしかなかった。
 当然数か月の航海なので、途中食料補給や水の補給、燃料補給などが必要で、寄港する必要も出てくるが、イギリスが日本と同盟を結んでいるので、イギリス領には寄港できない。そのため、当然日本に来ることにはこれから決戦だというのに、ほとんどボロボロの状態だった。そしてそこに待ち受けていたのは、佐世保や呉などの軍港で、十分に整備を受けた日本海軍だった。
 旗艦「三笠」を中心に、新型の火薬を使い、日本海海戦において、半日という短い時間で、雌雄を決することになった。
 日露戦争の勝利のい瞬間と言えるのは、海軍による日本海海戦の勝利と、陸軍による、奉天会戦の勝利であろう。
 それを持って、アメリカを仲介に、ポーツマス条約を結ぶことになるが、満州や遼東半島への権益は得ることができたが、戦争賠償金を手に入れることはできなかった。
 当時の日本は、もう戦費も兵力も、限界を超えていた、これ以上の戦争継続は国家の滅亡を意味するほどだった。
 政府とすれば、
「戦争をしなければ、侵略の憂き目に遭っていたものを何とか逃れることができたのだから、御の字ではないだろうか。当初の目的は果たせたのだから」
 と思っていたことだろう。
 だが、国民はそんなことは知らない。号外に出ている、
「ロシアに勝利」
 という文字しか気にしていないのだろう。
 それなのに、講和条約にて、戦争賠償金が得られないのを知ると、
「戦争に勝ったのにどういうことだ?」
 と言って、外務大臣の家を襲ったり、日比谷公会堂を焼き討ちにしたりという暴挙に出た。
 しかし、庶民の怒りも分からなくもない。何しろ、それだけの兵士が満州の土地で死んでいったかを考えれば、相当なものである。
 昭和の頃に、
「二〇三高地」
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次