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記憶喪失と表裏

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 しかし、性格的には結構違っていた。小説の中のれいなは、女らしいというべきか、嫉妬深かったり、お金に執念深かったりしたものだったが、なぜか、自費出版にはお金を払ったのだ。
 実は、元々、本を出したいという意識があり、普通の自費出版でもいいという思いからか、自費出版に手を出したのだ。
 このエピソードの原点は、高校時代の先生のものだったが、先生の話を訊いていて、
「実際には誰も口にしないだけで、結構まわりには小説を書いていて、自費出版に手を出した人も多かったのよ。もちろん、中には、自分にもできると思い込んで、実際にはほとんど勉強もせずに自我流の人もいたんだけどね。だから、まわりを見ていると、皆同じ気持ちなのかと思って、ある意味、少し気持ちが冷めかけていたことがあったの。そういう意味で、早めに目が覚めたのかも知れないわね」
 と言っていた。
 その中に、中学時代のれいなもいたわけだ。
 だが、先生の気持ちも分からなくもない。確かに、小説というのは、そんな簡単に書けるものではない。最後まで書けるようになるまでがどれほど大変なものなのか。そういう意味では、端にも棒にもかからない小説を書いている人でも、最後まで書ききっていれば、菜々美はそれはそれで評価できると思っていた。
 これからどんどん上手になる可能性を秘めていると思ったからだ。
 そういう意味では、最初の作品があまりにもひどいからと言って、その人の実力をその時点で判断するのは早急すぎる。
 だから、小説を書くということは、
「継続は力なり」
 という言葉と同じなのではないかと、菜々美は思うのだった。
 どれだけの力がその人に潜在しているかは分からないが、まずは、小説を最後まで書ききるということがどれほど難しく、それを達成できるようになることが一番大切なのだということを知ることが、小説を書き続けるための、第一歩でもあるのだ。
 れいなは最近、奇妙なことをいうようになった。何かの妄想のようにも思えるのだが、それはれいなが記憶を失っているその部分に忍び寄ってきたものであろうか?
 ただ奇妙なことと言っても、冷静に考えると、そんなにおかしなことを言っているわけではない、むしろ正論に近いくらいであった。それを正論と思えないのは、普段のれいなが言っている言葉と違っているからだと思えたのだ。
 よくよく聞いてみると、
「私が時々感じていることだ」
 と感じたのだ。
 かと思えば、菜々美が最近感じていることで、無意識に頭の中で口ずさんでいる言葉があるのだが、それは菜々美がいうようなセリフではなかった。
 しかも、そのセリフを独り言だと思っていると、
「菜々美って最近変なことを口走るよね?」
 と劇団の人から言われたのだが、そのセリフというのは、そのすべてが、れいなの役のセリフだったのだ。
 すべてが同じ芝居のセリフではないため、誰も、それをセリフだという意識はない。だから、れいなにもきっと菜々美が口ずさむことが何なのか分かっていないかも知れない。
 芝居というのは、それだけ自分の中で集中していて、集中していない時に、自分のセリフを訊いても、案外ピンとこないものだ。
「これ、あなたのセリフじゃない。しっかりしてよ」
 と言われることもあったくらいなのだが、それがどうしてなのか、れいなも菜々美も分かっているので、納得ずくのことであった。
 しかし、セリフに関しては自分で言っているという意識がないので、分からない。やはり集中力が強ければ強いほど、意識がないのかも知れない。
 菜々美はそのことと、記憶が薄れてきていることが、どこかで重なっているような気がして仕方がなかった。
 記憶喪失というのが、いろいろな原因によって起こることであるのも分かっている。何かショックなことがあったり、トラウマから起ころこともあるだろう。しかし、まさか二重人格のもう一人の自分が関係していたり、自分の集中力の強さが影響していたりということを考えたことはないであろう。
 そのあたりの感情であったり、無意識な潜在意識が夢と重なり合って、そこから記憶が薄れていくこともあるのだ。
 ただ、記憶が薄れるというのは、本当にすべてを自分の中で、
「なかったことにする」
 という意識の表れなのだろうか?
 何か先を目指すうえで必要なことなのかも知れない。
 そういえば以前絵を描いている人から話を訊いたことがあったが、
「絵描きというのは、目の前にあるものを忠実に描くだけのものではないんだ。時として大胆な省略も必要であり、省略したところを想像力で補うこともある。不要だと思うことが必要になることだってあるんだ」
 と言っていた。
 それを聞いて、
「大胆に省略するというのは、いきなり一気に叩き斬るかのようなイメージでいいんですか?」
 と聞くと、
「もちろん、徐々に薄れて行くことをイメージすることだってありなんだ。何しろ目の前にあるものを消し去るんだから、一気に消し去ってしまうと、無理がある。なぜか分かるかね?」
 と訊かれて、
「いいえ」
 と答えると、その人はニッコリと笑って、
「消し去った向こうに何があるかというのを創造しないといけないだろう? 実際には消し去るものが構えているのだから、その向こうに何があるのか分からない。それを創造するためには時間が掛かるかも知れないよね」
 と言われた。
「確かにその通りです。その創造にどれほどの時間が掛かるかは人それぞれなんでしょうけど、創造することができない人は、大胆な省略もできないということでしょうか?」
 と聞くと、
「いや、そんなことはないんだけどね。でもね、創造ができない人というのは、大胆な省略ということを思いつかないんだよ。それだけ、ちょっとした発想でも、考えることというのは難しいということなんだ」
 と言われた。
 人が発想することは、他人から見れば、
「そんなこと当たり前じゃないか」
 と言われるようなことであっても、結構難しいことはあるもので、ちょっとした発想の転換ができないものだ。
 これはまるで、自分で自分の顔を見るのと似ているのではないだろうか? 自分の顔を見ようとすると、鏡であったり、水面に写すなどの何かの媒体を使わないとみることができない。
「自分のことは自分が一番よく分かっているはずではないか」
 と思うが、実は自分のことは自分が一番分かっていないものなのではないだろうか。
 また、別の話で面白い話を訊いたことがあった。
「黒い鳥はすべてがカラスである」
 という言葉を例に出して、
「それを証明するにはどうするかということなんだけど、君ならどうする?」
 と言われて、
「そうね、私だったら、普通に黒い鳥を全部調べて、カラスだということを証明するでしょうね?」
 というと、
「でも、逆もあるんだよ。黒くないものを調べて、それがカラスではないということを証明するのも一つなんだよね」
 と言われた、
「どういうこと?」
「黒と、黒でないもののどちらを調べるのが大変かということは別にして。逆も真なりなんだ。黒い鳥はすべてがカラスだと言っているんだから、黒い鳥を調べる必要はないんだ。それがもし、九官鳥であっても、関係ないからね」
「ん?」
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次