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記憶喪失と表裏

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「長所と短所は紙一重」
 であったり、
「長所と短所は裏表」
 と言われるが、一見、まったく違っているもののように思えるが、実際には同じものではないだろうか、
 裏表と言っても、その間に境界線があるだけで、境界線が、紙一重だと思うと、あながち間違っているわけではない。ただそれぞれに特徴があるだけで、その特徴を網羅しているかどうかが問題なのだ
 特に裏表というと、実際にお互いが見えているのかどうかが問題になる。ジキルとハイドのように、一つの身体を共有していると、一つが表に出ている時は、片方は裏に隠れている。それが普通のように思える。裏表と言われるものに、果たして両方が表に出てくるというものが存在するかどうか、そちらの方がないようにしか思えない。
 ただ、自分が何かの行動をする時に、自分が天邪鬼だという意識からか、考えていることと、反対のことをしてしまい、歯止めが利かなくなることって結構あるのではないだろうか。それを天邪鬼だと言って、考えていることと別の行動をしてしまうこととして、性格の表裏や、長所、短所とは切り離して考えるのではないだろうか。
 確かに、自分が行動する時、考えていることと違うことをしている自分を感じることがある。
「どうして、自分の意識にはないのに」
 と思うと、それを、
「今の自分は夢を見ているのではないか?」
 と思ってしまうだろう。
 夢を見ているのだと思うと、結構大胆になるもので、まったく思ってもいない行動をしている自分が、夢の中であれば、どんなことをしたっていいと思うと、怖いというよりも、興味津々の思いが強くなってくる。
 そして、自分の行動が本心から出ているのではないかと思うと、余計に行動を抑制することができなくなってしまうのだった。
 意外と行動に移してみると、
「どうしてそれまで行動しなかったんだろう?」
 と思うほど、難しいことではなく、自分の気持ちに正直になっている自分に気づくのだった。
 行動しながら、考え方と矛盾しているという思いもある。だが、自分の身体が拒否をしているわけでもないという感情から、
「ハイド氏というのは、裏で表の自分のために何かをしようとしているのかも知れない」
 と思うと、悪いことばかりではないように思えた。
 小説の上では、完全に自分とは違う人物であるかのようなのだが、実際には本当の自分の気持ちであり、その矛盾をいかに正当化しようと考えると、
「ハイド氏というのは、自分が眠っている間にしか行動できないもので、見ることはできないものなのだ」
 と感じる。
 以前に自分で書いた小説の中に、
「もう一人の自分」
 というのをテーマにして書いたことがあった。
 それは似ている人間であったり、ドッペルゲンガーのようなものではなく、もう一人の人物が違う次元にいて、十分先を生きているという発想だった。
 つまりは、十分先にいる自分のその世界は、別の次元だという考え方である。
 ただ、この考え方は、もっと言えば、この先に無限に広がっていく可能性という世界は、すべて別の次元であるというものであり、だから、同じ人間が同じ次元で存在することは許されないということである。
 これこそがタイムパラドックスなのかも知れないが、
「いつ何時、自分の前を歩いている人が振り向くと、そこに自分がいたなどということがあるかも知れないが、それを人に知られると、ドッペルゲンガーを見たということで死ななければいけないというジレンマから、決して誰にも言わないだろう」
 言わないから、事実を誰も知らない。これが一種の矛盾であり、パラドックスというものではないだろうか。
 菜々美は、楽器が苦手である。なぜかというと、左右で別々のことをできないからだ、ついつ、同じ動きをしてしまいそうになり、まったく動かなくなってしまう。それが、楽器のできない証拠であり、これは、右が表に出ていれば、左は表に出ない。左が表に出ていれば右は表に出ないということで、片方の手に従事してしまうからではないだろうか。
 そう思うと、二重人格であったり、裏表のある人の存在を納得できる気がする。そして、自分も同じような二重人格性を持っているような気がしてきた。
 れいなが記憶を失っていく中で、果たして、れいなだけが記憶を失っているのかどうか、そのあたりも自分でよく分かっていないような気がする。夢を覚えていないのだって、同じようなもので、
「夢というのは潜在意識が見せるもの」
 というではないか。
 潜在意識というのは、無意識の意識と言ってもいい。無意識というのは、表の自分が分かっていないだけで、裏の自分が暗躍していることだとすれば、
「夢というのは、裏にいる自分にとっての現実であり、夢の中の人たちも知っている人なのに、まったく違う人物のように接してくる。自分の名前を呼んでいるのに、違う人間に接しているようだ」
 と感じるのは、やはり、夢というものが、まったく自分とは違う人間を相手にしているからなのだろうか?
 いや、まったく逆で、夢というもの自体が別次元のもので、もう一人の自分がこちらの世界で何もできないので、夢の世界という別次元で行動したことを夢に見ているのではないだろうか、
 ということは、逆に夢の中の自分も同じように夢を見ていて、現実のこの世界の自分を夢として見ているのだとすれば、それはそれで納得できるような気がする。
「こんな小説を書きたかったんだよな」
 と菜々美は思って、メモに書いた。
 菜々美は、結構忘れっぽい性格で、せっかく何かに閃いても、すぐに忘れてしまう。そう思ってメモに書くのだが、すぐにメモに書いたことすら忘れてしまっている。だから、ネタ帳というものを作り、何かを思えばそこに書くくせをつけるようにした。定期的に見るようにすれば、書いたことを忘れていても、メモを見ることで思い出せるというものだ。
 だが、結構いいことを思いついた時に限って、肝心なことを忘れてしまっている。その時の気持ちに何とか戻ることができると思う出せるのだが、最初はなかなかそうもいかなかった。
 だが、自分で印象的に感じたことというのは、えてして何度かは思い出すようで、
「前にも感じたことがあったような気がする」
 と思った時、ネタ帳を見ると、結構思い出せたりするものだった。
 その中には、かつての禍が世間を蹂躙していた時期に感じた恨みや憤りを書き散らしたもの。さらに、かつての自費出版社のような悪徳商法を懲らしめるかのような内容のネタだったりがあった。
 その中には、結構記憶を失うという設定の話が書かれているものもあり、プロットに近い形のものを三年くらい前の大学卒業前くらいに書いたものが見つかった。
 そこには、自分が登場人物の名前とキャラクターの設定が書かれていた。菜々美としてはそこまですることは結構珍しかったのだ。
 その中の主人公のなまえが、れいなという名前だったのだ。
 そういえば、劇団の中で仲良くなった時、名前を聞いたのだが、その時に、
「竹内れいなって言います」
 と言われた時、何となく懐かしさを感じた。
 今から思えば。自分で書いた小説の中のれいなと、現実のれいなを重ねてみていたようだった。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次