記憶喪失と表裏
あれだけの本を出しているのに、都会の有名書店のどこに行っても、その出版社から出版された本を見ることはない。当然のごとく、裁判を起こす人が一人二人と増えてきて、裁判の行方よりも先に、評判がガタ落ちになり、本を出す人がいなくなる。当然数か月で運転資金は底をつき、自己破産ということになってしまった。
しかも、民事再生を起こしたので、作者にはお金は返ってこないどころか、本は、買い取りということになる。
「そんなバカな、共同で出版しているのだから、破産したら、自分たちのものだ」
と言っても、相手が民事再生ではどうすることもできない。債権者に圧倒的に不利な法律だからである。
それが、自費出版社系における社会問題であったが、そもそも、勉強もしないで、ちょっと他の人も書いているというだけで、
「自分もプロになれるかも知れない」
という考えが大いに甘いのだった。
あれだけ本を出したい、小説家になりたいと思っていた人が雲の子を散らすように、本を書かなくなったようだ。
もっとも、これが正しいあり方なのだろう。趣味で楽しむだけであれば、それほど騙されryこともなければ、問題になることもない。そもそも、昔から自費出版というものはあった。
それは、自叙伝や詩歌などを趣味として書いている人が、人生の記念にということで、書いているものを、数十部ほど作成し、知人や、家族に贈呈する場合などのことである。人生の記念なので、本人はお金の問題ではなく、別にプロになるなどという思いもないので、別に問題にはならないだろう。
さらに、自費出版というと、同人誌などのように、あくまでも趣味のサークルとして、自分たちでお金を持ちよって、製作し、それを製作発表ということで、フリーマーケットなどで販売することもよくあるというものだ。
それも、別に問題になることはない。
だから、今も昔も自費出版というのはあるのだろうが、どうもあの頃の自費出版ということが社会問題になったので、その言葉自体があまりよくは言われていないかも知れない。
菜々美は、その時はまだ知らなかったが、れいなは以前中学時代に小説を書いていて、自費出版の会社に自分の作品を送り、評価を受けたこともあった。
その時、本当は母親に、自費出版の会社から本を出したいと言いたかったのだが、前述のような事情であったため、言い出すことができなかった。
その頃かられいなは、自分を閉ざしてしまったのではないかというのであったが、騙されなかったというだけでもよかったと言えるのだろうが。
れいなにとっては、その頃小説を書くということが、母親に対しての反発を心の中で抑えるという意味で、抑制力のようなものになっていた。
しかも、その作品がある程度母親に対しての憎しみから出ていることで、中学生という枠を超えての恨みの籠った作品は、自費出版社の心を捉えたのは確かなようだ。
それこそ、
「あなたの作品は、もう少しで入賞できるレベルの作品です」
と、たくさんの人に言っていたが、その中で一番信憑性のあるのは、れいなの作品にだったであろう。
れいなはそれだけ聡明な女の子で、頭がよかったこともあって、結構早いうちに、この会社の怪しいことを分かっていたようだ。
そして、
「自分の作品であっても、プロにはなれない。これでも恨みは足りないのか?」
という思いがトラウマになってしまったようだ。
それを隠そうとする思いから、天然で天真爛漫になった。天真爛漫でいれば、嫌なことは忘れられるし、まわりを支配しているかのようにすら思えたからだ。
そういう意味で、れいなの天真爛漫さは、ある意味、あざとさであって、あざとい中に頭の良さが混じっていることで、ある意味、かしこさをごまかせるのであった。
記憶喪失の結末
れいながどんどん記憶が薄れていくことで、それに反してなのか、彼女がどんどん聡明になっていくのが感じられた。
何か彼女を包んでいたベールが剥がされているように思えて、
「今なら、彼女の表現したいことが何であるか、そして、それを自分で表現できるところまで来ている」
と思っているのではないかと思えた。
ベールというのは、表に出そうになっていることを抑える力があるのだが、逆にその見えない力を形に表すという意味でも用いられるのではないだろうか。
そこまでれいなは分かっていなかったようで、
「ベールに包まれていることは、表に出すべきものではない。だから、隠しておきたい時に使うんだ」
と思っていたようだ。
れいなは記憶が薄れている時、一番素直になる、意識が朦朧としてくる中で、素直な彼女を見ていると、
――なるほど、新人離れした演技ができるのが分かる気がする――
と思っていた。
あざとさを包んでいるのが、記憶という意識を持ったれいなであれば、記憶が薄れてくると現れるのが、素直な気持ちを表に出すれいなであろう。
「ジキルとハイドのようだわ」
と、正対する二重人格者を描いた作品を思い出すのだった。
話はかなり恐ろしい、ホラーであるが、ハイド氏というのは、ジキル博士が自分で開発した薬によって作られたものであり、先天性として持っているものを、増幅させることで表に出すという、これも正対する理論を、どちらも納得させる形で文章にできるところが名作と言われるところではないだろうか。
れいなは、記憶が薄れて行く中で、
「私って、二重人格じゃないかって思うようになったの」
と最近いうようになった。
菜々美が見ている限りでは、そんな感じはなかったが、言われてみると、演劇をしている時に時々見せるあざとい演技が、どうもウソではなさそうな気がしてきた、あまりにもリアルに感じられるという感じである。
「ジキルとハイド」
というお話は、クスリによる作用によるものであるが、トラウマによっても、二重人格になる可能性は十分にあるのではないだろうか。
そのことをれいな自身が意識していて、その二重人格性がどこから来るのかを調べたいという意識から、演劇の世界を覗いてみると、意外と面白いことが分かり、二重人格の自分を確かめたいという思いとは別に、純粋に演劇をやってみたいという思いも生まれてきたことに気づいていたようだ。
だが、そのこと自体、自分の二重人格性を表に出しているということになるのではあいかというのが証明されることになっていると、分かっているのだろうか?
菜々美は、れいなを見ながら、自分がれいなになったつもりで見ていることで、れいなが意識として持っているのか分からないが、潜在意識として感じていることを、自分が感じているのではないかと思うのであった。
れいなが中学の頃、母親に対して抱いたトラウマと、自費出版社に対して感じたトラウマ、似ているようでまったく違っているトラウマが、同じ自分の中にあると思うよりも、自分の中に、
「ジキルとハイド」
がいて、それぞれにトラウマとして残っているのではないかと思うと、どちらかが表に出ようと自分の中で入れ替わる時、記憶の薄れが出ているのだとすると、そこに何か今まで感じたことのない何かが潜んでいるのではないかと感じるのだ。
よく、