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記憶喪失と表裏

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 このバブルの崩壊という事実、これは、今の時代に繋がるものではないだろうか。
 数年前の禍の時、
「かつて、こういう時代が最近あったというのを学校で習ったような気がするんだけどな」
 と思ったが、すぐには思い出せなかった。
 それはきっと頭の中にはあったが、意識としてあまり感じていなかったからではないかというバブルという時代を彷彿させるからだった。
 バブルという時代には、
「どうして、あの時、誰も気付かなかったんだろう?」
 という思いがあるのだが、数年前の禍の時は、
「このまま進めばどのような悲惨なことになるか、分かっているはずなのに」
 と誰もが思っているのに、国家や自治体に、策がなく、
「専門家の先生のお話を伺いながら、善処していく」
 というセリフをまるでレコーダーによるエンドレスで聞かされたセリフのように、耳にも残らない、まったく説得力もなく、薄っぺらい言葉でごまかしながら、何度も何度も、甘っちょろい策しか取れずに、社会崩壊を招いたのだ。
 専門家の先生も、政府のやり方に危機感を示していた。
「そんな専門家の意見を聞きながら」
 という言葉のわりには、自分たちの利権に絡むことであれば、無視してしまう。
 口で言っているだけの政府だということは、そんな禍がくるまでの国民は皆知っていたのだ。
 それなのに、政府は孤立してしまったかのように、今度は世論を無視して、自分たちの利権のために突っ走る。もしあのまま国家が転覆していれば、責任のすべてが政府だったであろう。
 政府与党がダメなら、野党もダメ。
 批判ばかりして、対案をまったく示そうとしない。批判だけしかしていないので、その趣旨はバラバラで、誰が信用するというのか。
 政府与党が世論調査で支持率が裁定になっているのに、野党も一桁という体たらくには、さすがに国民は、政治家というものすべてに疑心暗鬼になっていることだろう。
「本当にどうなるんだ。この国は」
 と、皆が言っていた。
 悪いのは政府だけではない。むしろ、もっと悪いと言われているのは、マスゴミだった(もちろん、マスコミなどという言葉は認めない)
 そんなマスゴミに世論も踊らされ、自粛を叫びながらも、一部の人間を煽るかのような報道は、政府と同様に、世の中に、
「人災」
 をもたらしていた。
 特に今の時代はネットが主流で、SNSなどのサービスも充実していて、いい面もあれば、悪い面もある。
 悪い面というのは特に、こういった国難の時期に起こる誹謗中傷であったり、デマを誘発してしまうことだった。
 誹謗中傷やデマはやはり想像された通り、いや、それ以上に蔓延していた。
「もう、何を信じていいのか分からない」
 というのも本音で、国民に自粛を呼びかける政府や自治体の職員などが、大人数の会食で、感染してしまうなどという不祥事と言ってもいいことが、頻繁にあった。
 それをマスゴミは必要以上に叩く。
 国民はそれを見て、誰もが勧善懲悪に目覚めてしまい、神経が過敏になって、
「自粛警察」
 なる、自分たちの理論でしかない正義を他人に押し付けようとする輩が出てくることになるのだ。
 そんな時代を背景に、政府は、批判されながらも、たくましく生き抜いている。それこそ、台所に救う、誰からも嫌われている脂ぎったあの虫のようではないか。
 そう、国家権力に胡坐をかいている連中は、どこかで一つ不祥事が出れば表に出ていないだけのものが十くらいはあると思ってもいいのではないだろうか。そう思っているのはほとんどの国民で、国民から見れば、政府は
「百害あって、一利なし」
 というくらいにしか思われていなかっただろう。
 何しろ、国難の時期で、何をおいても守らなければならない国民の生命や財産を、
「安心安全」
 と壊れた蓄音機のように繰り返して言っているイベントに執着しているのだから、もう誰も信用などしない。
 そこまで政治というものが腐敗している最低の国家だったのだろう。
 今は禍も少し落ち着いてきて、国家としての体裁を取り戻しつつあるが、一度失った国民の信頼を取り戻すことが本当にできるのか?
「まず無理だろう」
 という人が、調査ではほとんどだった。
 誰の目から見ても明らかなその状態。誰にもどうすることもできない状態が、かつてのバブル崩壊の時代にもあっただろう。違いといえば、国家がもう少しましだったということだ。政治家の質なのだろうか?
 当時のバブルが弾けてからの時代というのは、前述のように、リストラのあらしが吹き荒れ、人件費などの経費節減が叫ばれるようになった。
 会社は、人件費を減らしたために責任者だけを置いて、それ以外は正社員以外で賄うというようなやり方になり、しかも、経費節減から、残業手当もなく、電気をつけていると、怒られる始末だった。
 確かに仕事は大幅に減ったが、実際に一人に対してこなせる量は、却って増えたと言ってもいい。
 そんな中で、社員はそれまで会社に使っていた労力を他に向けるようになった。
 それまでは、それこそ、
「徹夜の仕事が何日も続く」
 ということで、スタミナドリンクが飛ぶように売れた時代だったのが、
「残業はしてはいけない」
 ということになった以上、定時には帰るようになった。
 その頃に言われていたのは、
「五時から男」
 などというように、定時になってから、急に張り切り出す人が目立ってきたということである。
 どうせ会社であくせく仕事をしても、給料が上がるわけでもなく、ボーナスも支給されないなどという時代も結構あった。
 そんあ時に流行り出したのが、趣味にお金を使うということであった。
 スポーツジムであったり、芸術に対してのカルチャー教室であったり、それまで仕事でできなかったことをしようというもの、いわゆる自分のスキルの向上であった。
 スポーツジムなどは結構流行っていたようだ。仕事が終わって、それまでのなまった身体を鍛えるということに目覚めた人も多かった。
 テニススクールというのも結構流行っていたようで、さすがにゴルフなどの、
「バブルの象徴」
 には手を出す人は少なかっただろう。
 気軽にできるものが流行るということで、芸術的な教室も多かったようだ。
 女性であれば、花嫁の嗜みと言われたようだ、お茶、お花などを一般の人が習い始めたり、絵画教室や、小説講座なども人気だっただろう。
 その中での小説講座。
 それまでは、なかなか続かないことの最たる例だったようであるが、徐々に小説を執筆する人口が伏せてくると、
「主婦や学生でも小説が普通に書ける時代」
 ということが言われ始め。それまでコンクールや小説文学賞などを制定しても、あまり応募者はいなかった。
 しかし、小説を書く人口が急激に増えてきたという情報が世間に出回ると、
「自分にだってできるのではないか?」
 ということで、皆ダメ元で小説を書いて、文学賞に応募したりするようになった。
 それを見てできてきたのが、いわゆる、
「自費出版社系の出版社」
 の出現であった。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次