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記憶喪失と表裏

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 きっと若い連中は、自虐などという言葉を嫌というほど聞いているので、新鮮さどことか、どこか泥臭さしか感じないだろう。
 だが、菜々美にはその泥臭さすら嫌ではなかった。嫌いではないと言った方がいいのかも知れない。
 いくつからが若い連中だと言えるのか、菜々美には分からなかった。年齢的に二十代後半に差し掛かろうとしているのだが、人によっては、
「そうねぇ、三十くらいが境目じゃないかしら?」
 という人がいた。
「どうしてなの?」
 と聞いてみると、
「いろいろ理由はあるんだけど、まず最初に考えられるのは、老化というのは、二十代後半から始まるということ。それはきっと肉体的なものだろうから、精神的に本当に老化が始まったと思うのは、そこから少し経ってからの、三十歳くらいではないかと思うのよね」
 と言っていた。
「うんうん」
「それにね、三十歳というと、昔でいうと、結婚適齢期と言われるくらいの年齢でしょう? そのうちに結婚を望む年齢が少し若くなった時期があって。そのうちに、客に三十過ぎでも十分に感じられるようになったんだけど、実質的に、それ以上になると、高齢出産が現実味を帯びてくるでしょう? そうなると、結婚しなくてもいいという人が増えてきて、結局、結婚ということ自体、しないでいいのかっていう機運が高まってきたでしょう? そのために、結婚適齢期などという言葉が死語になってきて、しかも今の時代になってくると、男に言われるとセクハラだとかの発想になってしまう。結婚という言葉が、触れてはいけないことになってきたのよね。それって、生きていくうえでの一つの節目を否定しているようで、何か変な気もするのよね」
 と、少し話が逸れてきたので、
「それで?」
 と聞き返すと、彼女も我に返ったようで、
「あっ、そうそう、本題から少し離れてしまったわね。でもね、私にとって三十歳というのを考えた時、これは年配の人が真剣な顔でいうことなので、思わずその気になって聞いてしまったんだけどね。説得力があったの」
 というではないか。
 それを聞いて思わず、こちらも乗り出すようにしながら、
「それで?」
 と喉を鳴らすようにしながら、再度同じ聞き方をしたが、
「その人がいうのは、十年間という期間で区切ってみると分かるっていうの。それはね、二十歳から三十歳までの十年と、三十歳から四十歳までの十年、この違いが教えてくれるんだっていう言葉を聞いたことなのよね」
 と、いうのだ。
「それって、十年の長さがまったく違うと言いたいのよね?」
 と聞くと、
「うん、その通りなの。しかも、その人が本当に真剣な顔でいうのよ、それはこっちも真摯に受け止めなければいけないことでしょう?」
「真摯」という言葉に、どこか他の言葉と重みの違いを感じていた菜々美は、その話を訊いた時、
「そっか、三十歳を境にその前後がどういう違いなのかは分からないけど、そこが一つの節目になるということね?」
 と聞くと、
「そうなのよ。子供が大人になってからでも、ずっと大人のままでいくわけではなく、またどこかで節目がでてくる。それを自覚できるかどうか、いや、その瞬間になるべく近い時に気づけるかどうかは大切なことではないかな?」
 というのを聞いて、
「確かに子供と大人の境目も、なるべく近い将来に気づいていたらよかったと今でも思いますもんね」
 と、菜々美は言った。
 そんなことを考えていると、
「自分ももうすぐ三十歳になるんだ」
 と思うようになった。
 三十歳というと、母親が自分を生んだ年だということを思い出した。今では五十歳を過ぎて、かなり老けてきていて、実際に太ってきているのを気にしてはいたが、年齢の割にはまだまだ綺麗だと思っているのに、なぜそんな風にいうのかを考え、昔のアルバムを見てみると、三十代の母親が、今では信じられないほどに美しく、まだ二十過ぎでも通用するのではないかと思えるほどであった。
 実際に、女の菜々美から見ても、羨ましいくらいに見える。逆にいうと、
「あんなに美しい母親が、五十を過ぎると、見る影もないくらいに老けてしまうんだ」
 と感じられることが怖かった。
 母親だという贔屓目で見ても、五十代それなりにしか見えない今の母親は、やはり、
「一番近い存在なのだが、触れることのできない存在なのではないか?」
 と思わせるほどの女性であった。
 見た目ではない威圧感が母親からは感じられ、自分が生んだ子供に対して、果たして自分がそこまでの貫禄を持つことができるのか、疑問であった。
 それでも、中学、高校時代にはそれなりに反抗期を迎えていて、かなり逆らっていた記憶があった。
 だが、逆らったというだけで、今から考えると、その逆らうということに信憑性はなく、何が不満だったのか、それも自分でハッキリと分かっているわけではなかった。
 母親の威厳が、今でも触れることのできない何かを持っていると思わせたのは、年齢的なものと、親子という切っても切り離せない関係にあることの運命を感じたからではないだろうか。
 母親についての話をれいなと話したことがあった。
 れいながいうには、
「私は母親をあまり母親として感じたことがない」
 と言っていた。
「どういうことなの?」
 と聞くと、
「私の母親は、お父さんが死んでから、何度か再婚しているんだけど、すぐに別れてしまうの。相手の男が別れを切り出すようなんだけど、子供の私から見ても、その理由は分からないのよね。別に男から嫌われるようなタイプじゃないし、そんなことを考えていると、急に母親が私に冷たくなってきたの。『あんたがいなければよかったのに』って言いながら、私を殴ったこともあったわ。ちょうどその頃、私はまだ十歳ぐらいだったかしら? その時、母親はかなり酔っていたようで、後でそんなことをしたなんて覚えていないほどだったのよ。それ以外の時は私には優しかった。その時だけが異常だったとしか思えない。子供だったんだけど、私の中で、その時の母親が、本当の母親だという気持ちが消えなくて、それがそのままトラウマになって、母親に対して信用しなくなった。もし、あの時のことがなければ、もし、あそこまでひどくなければ、私の人生は変わっていたかも知れないと思うくらいなの」
 というではないか。
「そうだったの」
 と言ったが、今のれいなからはそんな気配も感じられない。
 てっきり、普通に幸せに過ごしてきたんだと思っていたが。考えてみれば、自分だってまわりからそう見られているかも知れないけど、人それぞれに事情があって、いろいろ考えるところがあるのだろうと、思うのだった。
「私は、母親を恨んでいるわけではないのよ。ただ、しいていえば、その時のことがなかったら、人生が変わっていたかも知れないなどと思うことはなかった。違う人生があったかもというのは、自分が経験したことで感じるものでしょう? 外的な要件から受けるものなんかじゃないよね? それが私には悔しいのよ」
 と、れいなはいうのだった。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次