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記憶喪失と表裏

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 どちらが、自分にとって大切かと言われると、単純に比較できるものではない。ただ、儀式と禊の違いとして、どちらが先に進んだ時、思い出せるかというと、禊の方だと思ったのだ。
 そもそも儀式ということであれば、
「運命に翻弄されているだけ」
 という思いしか残らず、思い出そうという意識もないような気がする。
 もし、思い出すのだとすれば、女性を身体を重ねる禊の最中に、どこか後ろめたい気持ちを抱いた時、儀式を思い出すことで、禊を自分の中で納得させ、禊がいかに大切であるかということを思い知らせるという意味での、一種の起爆剤のようなものではないかとお思うのだ。
 それだけ、性というものが同性異性で壁があり、同性だけしか愛することのできない人には、異性を愛することはおろか、男女どちらでも行けるという両刀という意識がないのかも知れない。
「菜々美さんは、男にも感じるんですか?」
 と言われたことがあった。
「ええ、そうよ。皆もそうじゃないの?」
 と、それを言われるまで、同性を好きな人は、異性も好きなのだと思っていて、
「両刀は当たり前のことだ」
 と感じていた。
 だが、この時に、自分が抱いていた女の子が急に身体を固くして、身体が震えてくるのを感じると、それがどこから来るのか分からなかったが、急に不安が襲ってきた。まるで、足元がいきなり開いて、奈落の底に叩き落されるような気持ちになったからだった。
「菜々美さん、気持ち悪い」
 という愕然とした言葉を浴びせられ、それからしばらく、女性不信に陥ったことで、この時言われた、
「気持ち悪い」
 という言葉、思い出したくないという思いを、永遠に残してしまうのではないかと感じたのだった。
 その頃からだろうか、瞬間的に記憶を失う時があるのを感じるようになったのは……。
 ふとしたことで、覚えているはずのことを思い出そうとするのだが、思い出せない。だから記憶を失うという言葉とは少し違っている。思い出せないということと、忘れてしまうということは明確に違うことだという意識があるのだが、自分にとって思い出せないことが、忘れてしまったと感じることと、一緒になってしまっていたのだ。
 その時期が、
「気持ち悪い」
 と言われて驚愕してしまったことと関係があるのだろう、
 何かを思い出すということは、思い出すきっかけがあるからなのだろうが、それは思い出そうとしているそのものではない。思う出すためのあくまでもきっかけになったことがあったからであって、思い出すのは複合した内容があってから思い出すのだ。
 だが、思い出す中にも、本当は忘れていたのだが、思い出した瞬間、忘れていたということを、忘れてしまったかのようなことがある。つまり忘れていたはずなのに、その意識がないのだ。
 そういう意味では、忘れてしまうことと、記憶を失うということをごっちゃにして、忘れてしまったこととして意識してしまうと、思い出す数の方が、今の理屈からいうと数は少ないはずだ。
 だが、忘れてしまうことも忘れてしまっているので、実際には意識したことのないことだ。それを冷静になって考えると、笑いが漏れるほどにおかしな感覚になっていることがある。
「人間なんて、一度忘れてしまうと、それを思い出すなんて、奇跡のようなものだな」
 と感じたことがあったが、それは、
「本当はほとんどのことを思い出しているのに。あるいは忘れてなんかいないのに、思い出せないことが多いと思うのは、意識せずに記憶として続いていることが多いからなのかも知れない」
 と、前述の理屈から考えるのだった。
 菜々美が、
「役者としてやっていくとすれば、一番のネックは、覚えられないことではないか?」
 と思っていた。
 セリフであったり、その場面場面の表情や態度に至るまで、自分で自分を形成するのが役者だと思っていた。
 特に舞台ともなると、生で見てもらっているので、NGは許されない。しかも、毎回同じ演目で、一日に数回、それを開園期間中毎日演じることになるのだ。
 何度もやっていると慣れてくるし、覚えてもくるだろう。そして、試行錯誤の中で、演技も完成されていくに違いない。
 だが、それは、逆にいえば、最初の何回かは試行錯誤の真っ最中で、演技が一回一回違っても仕方がないともいえる。
 何度も繰り返している方が、熟練はされるだろうが、それが果たして最高の演技なのかと言われれば難しい。表情にしても、同じ場面でもまったく違っていたかも知れない。
 それが、菜々美には違和感として残ったのだ。
「セリフをいつも覚えている先輩たちが羨ましいし、どうしていつもブレることのない演技ができるのか、不思議で仕方がないのよ」
 と先輩に聞いたことがあった。
「それはね。演技を重ねている時に、よく自分でも分からない何かの記憶喪失になることがあるのよ」
 というではないか。
「それって、芝居中に?」
「ええ、そうなのよ。でもね、まわりから見ると別にそんなことはないの。自然だって言われる。それどころか自分が記憶喪失になったかと思っていたその部分の演技を、悪く言う人は一人もおらず、逆に、何か神が降りてきたかのように思えるくらいだって言われているのよ」
「へぇ、すごいですね。神降臨なんて、いかにも芝居にピッタリな気がしますね」
 と、半分茶化したようにいうと、真剣な顔で、
「これって笑い事ではなく、真剣なのよ。あなたにもそのうちに神が降臨してくるはずよ。その時を忘れないようにすれば、一皮も二皮もその時に剥けるのよ。だから、あなたには、私の今の話を忘れないでほしいの。あなたを見ていると、忘れるという要素は感じないんだけどね」
 と言われた。

              薄れいく記憶の中で

 れいなは、フェロモンと同性愛の話を絡めるような話し方をしたが、それはあきまでも精神論のようなもので、実際に同性愛者ではない。菜々美もそのことを分かっているので、別にれいなから離れようとはしなかった。
 逆に彼女の演劇愛のようなものが感じられたことが菜々美を感動させた。何かのきっかけがあったとはいえ、一つのことにここまで真剣になれると相手に信じさせるようになったことは尊敬に値することだと思うのだった。
 むしろ、そのきっかけを、自分もほしいと思った。彼女がいうように、きっかけというものが人の心を動かすに十分なものだということは、彼女の話で納得したのであって、理屈としては、菜々美も分かっていたような気がする。
 中学時代に、一度小説を書きたいと思ったことがあった。その時は、
「人に自分の書いた作品を読んでもらいたいな」
 という、よくある何かを始める時のきっかけとなるような理由であったが、実際にやってみると、思ったよりも難しい。
 何が難しいと言って、かしこまった形で真摯に向き合おうとすると、すぐに気が散ってしまうような気がしたからである。それはまるで、真剣になればなるほど、笑いがこみあげてくるかのような理屈であった。
作品名:記憶喪失と表裏 作家名:森本晃次