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骨散る時

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「小説を書く上で何が大切なのかというと、それは集中力だ」
 ということである。
 集中力というのは、誰にでもあるものだが、その分気が散るのも仕方のないことだ。気が散るのを、
「集中が足りないからだ」
 と感じていたが、三十代に入ると、
「それは少し違う」
 と感じるようになった。
 集中力の有無は、気が散るということと相対的なものであるのだが、相関関係にあるというわけではないということに気づくと、小説が書けるようになった。ひょっとすると、小説が書けるようになったから、そのことに気づいたのかも知れないが、その順番にはあまり意味がないような気がした。
 松永は久しぶりに会った佐久間と、尽きない話をしていたが、どうにもエンドレスになりそうで、しかも、時間的に自分が考えている時間よりも、想像以上に過ぎてしまっていることが分かると、
「このままだと帰る機会を失ってしまうかも知れない」
 と思った。
 それは時間が経てば経つほど帰るタイミングを見つけることは困難になりそうで、そのことが分かっているだけに、いかに話を終わらせるかというのが問題だった。
 これは小説を書く上でも同じことで、ある意味、
「書き始めるよりも、終わらせる方が数倍難しい」
 とも言えることだった。
――こんな思い、以前にもよく考えたことがあったような気がしたな――
 それを小説のネタに使ったことがあったので、よく覚えていた。
 始めるよりも終わらせる方が難しいことのたとえとして、まず浮かんできたのは、戦争というワードである。
「戦争は始めるよりも終わらせる方が数倍難しい」
 と言われるが、それはどんな戦争にしても同じである。
 終わらせ方として何とかうまくいったのが、日露戦争ではなかったか。元々、
「世界の大国であるロシアに戦いを挑もうなどというのは自殺行為」
 とまで言われていた。
 しかし、日本という国の安全保障上の問題から避けては通れない問題であったが、同じ利害関係を持っていた当時のイギリスと同盟を結べたり、アメリカと友好的な関係を保てたことで、最後の仲裁に入ってもらえたという外交による根回しによって、戦争を有利に進められたのが一番だった。
 いわゆる戦争という純粋な戦いだけで挑んでいれば、まず間違いなく、日本は安全保障を脅かされて、アジアにおける勢力地図は大きく変わっていただろう。それがよかったのか悪かったのかは、歴史におけるタラレバということになり、その後の歴史でも答えが出ていたかどうかの判別も難しいだろう。
 そもそも、二二六事件においてもそうなのだが、よく、
「歴史が答えを出してくれる」
 という言葉を言われるが、それは果たしてどういう意味なのだろうか?
 歴史が仮に何ならの答えを出すとして、
「これが、あの事件における答えになる後年の歴史なんだ」
 と、誰が言えるのだろう。
 だいたい、誰がそのジャッジを下すというのか、もしそれが答えだとして言えるのだとすれば、歴史がまずその事件から最短で繋がっている必要があり、答えを出してほしいと思っている連中の思想が反映されていなければならないはずだ。
 しかし、時代というのは、その後もずっと続いていく。歴史とはそこで終わりではないのだ。
 つまり、その時がひょっとすると、本当に答えだったのかも知れないが、その後にもその答えに対しての歴史も続いていくわけで、それ以前の歴史が途切れてしまったというわけではないので、まるで金太郎飴のように、どこを切っても同じでなければいけないのではないだろうか?
 そんなことを考えると、本当に眠れなくなってしまう。
 また戦争の中で、終わらせるタイミングがあったにも関わらず、終わらせることに失敗したのが、大東亜戦争ではないだろうか。元々あの戦争は、これも日露戦争と同じで、開戦しなければいけないところまで追い込まれたことでの戦争であった。当初政府としても、軍部としても、
「戦いになったら、まずは緒戦で大きなインパクトのある戦いを行って、相手の繊維を喪失されることで、一気に講和に持ち込み、有利に講和を成功させるということしか、勝ち目はない」
 と思われた。
 しかし、日露戦争での勝利、さらに緒戦であまりにも強烈な勝ち方をしたので、そもそもの目的を忘れてしまった。結局、大国の圧倒的な生産力と兵器開発力の前に屈することになったのだが、これも終わらせ方を間違えた結果だと言えるのではないだろうか?
 それが戦争による終わらせ方の失敗であった。それだけ始めるよりも終わらせることが難しいということなのだが、戦争以外にも難しいと言われることがあるではないか。
 それは、今の誰にでも起こることで、かなりの人が経験していることだと言えるのではないだろうか。
「離婚というのは、結婚した時の数倍のエネルギーを必要とする」
 という言葉があるが、まさにそのことであった。

                アイデアの膨らみ

 もちろん、結婚したことも、離婚したこともない松永に分かるはずのことではないが、今入院中に佐久間には分かることだろう。ただ、今の世の中は昔と違って、結婚する人は減ってきていて、結婚しても、離婚する人が結構増えてきているという。ある意味独身者が多いということだが、再婚率というのはどうなのだろうか?
 もし、再婚する人が少ないということであれば、前述の言葉の説得力はあろうかというものである、
 結婚しない人の理由を聞いてみたいと思うのは松永だけではないだろう、松永は、人と関わるのが嫌だということと、同じ人とずっと一緒にいて、飽きないという自信がないこと、そしてよく言われることとして、
「この人となら、一生添い遂げることができる」
 と思っているが、その言葉に信憑性を感じないという人もいるだろう。
 さらに、最近の松永、つまり五十歳を過ぎてから考えることとしてもう一つある。
 それは、子供の頃に経験したことであったが、松永の家には犬がいた。自分が小さい頃に、親がまだ子供の犬を買ってきて、子供の成長を見守るように、犬の成長も一緒に育んでいたのだが、親も松永自身も分かっていたのではないかと思うのだが、一緒にいる時は考えなかった。分かっていて敢えて目をその事実から背けていたのか、事実としてあるのは、
「イヌの寿命は人間に比べると短い」
 というものだった。
 大体、生きても十五年くらい、十年も生きればいいのではないかと言われてもいるのがイヌである。ハムスターのように短いペットからすれば、十五年というのは結構長いのだろうが、自分よりも先に死ぬのは分かり切っていることである。
 ハムスターのようにすぐに死んでしまうことを思えば、十年以上生きてくれれば十分だという考えもあるが、実際に十年も一緒にいれば、完全に情が移ってしまって、死を迎える時、その事実と本当に向き合えるのか、自分でもよく分からない。
 イヌの場合は、徐々に老いを感じていく。
「この子もだいぶ年を取ってきたわね」
 と、母親も覚悟を決めているようだが、まだ、中学生か高校生くらいの子供には、なかなか受け入れられるものではない。
作品名:骨散る時 作家名:森本晃次