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骨散る時

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 一緒に散歩したり、えさを食べさせているのを横で見ていて、おいしそうに食べているのを気が付けば満面の笑みを浮かべて見つめている自分に、微笑ましさを感じたりと、犬と一緒に過ごした日々は貴重で、忘れられないものとなっていた。
 いざ、硬くなって冷たくなった犬を見ていると、悲しさを通り越して、何もできなくなってしまったほど放心状態に陥っている自分に気づく。
 それまでは、犬が死ぬという事実を自分で考えないようにしていたというわけではなく、最初から分かっていなかったのではないかと思ったのだ。そして、死を目の苗三して初めて意識して、いなくなってしまったことに悲しみを覚え、いや、何に対して自分が悲しんでいるのか分からなくなっていた。
 死んでしまったということが悲しいのか、もう二度と会えないということが悲しいのか、それとも、死を目の前にしていたはずなのに、何もしてあげられなかったことが悲しいのか。
 憔悴状態に陥っていると、まわりは、
「この子は君に感謝しているはずだよ。最後までそばにいてくれたからね」
 と言って慰めてくれるが、その慰めが何に対しての慰めなのか分からなかった。
 自分が、何かに後悔していて、その気持ちを和らげるために慰めてくれているように思えたからだ。
 だが、何を後悔するというのか? 死ぬことを意識していないかのように振る舞っていた自分が悲しくなったことで、何かを後悔しているかのように見えるのか、自分を慰めてくれる大人だって、自分以上にいろいろと死というものに対して経験しているはずだから、慰め方も分かるであろうに、皆、判で押したかのような慰め方は、どこから来るというのか、本当に分からなかった。
 あれだけ子供を慰めながら、毅然としていただろうに、ほとぼりが冷めてくると、
「動物はもう飼う気にはなれないわ。見送るというのは辛いものだから」
 と言っていた。
 人間は嫌でも見送らなければいけないので、運命から逆らえないのだろうが、ペットは飼わなければいいだけのことだ。すぐに捨ててしまう無責任な飼い主が多い中で、まだいいのだろうが、どうもそんな親の考え方にどこか納得のいかないところを感じた松永だった。
 もっとも、始めるよりも終わらせる方が難しいというのは、こういういろいろな発想を集約できないからだというのも一つの理由なのかも知れない。
「決断ができない」
 という優柔不断な性格もさることながら、
「いろいろ豊富な発想が頭の中から湧き出してくる」
 といういい性格もあることから、
「自分の中にあるもので、いい性格と悪い性格が表裏にあるのだ」
 という考えが生まれてくるのも無理もないことだろう。
「長所と、短所は紙一重」
 ということばを聞いたことがあるが、まさにその通り、歌舞伎などの舞台設定にあるという、
「どんでん返し」
 などがその例となるのではないだろうか?
 どんでん返しというと、忍者屋敷などで、非難する時や、あるいは、相手をその日やにおびき寄せて、誰もいないと思わせておいての奇襲攻撃に使ったり、以前、子供の頃に見たアニメで、表はみすぼらしい茅葺屋根の民家なのだが、中には豪華な品々で溢れた豪邸のような部屋だった。実はこの家の家主は盗賊で、盗品を家に飾っていたのだ。
 しかし、刑事や他の盗人の目を欺くため、もし、誰かが家に近づいてくれば、家の柱の横にある紐にぶら下がると、上下が反転し、外観にふさわしい、囲炉裏端のような室内に早変わりをするという、どんでん返しの仕掛けが施されていた。
 子供の頃にそれを見た時、
「よく、水などがこぼれないな」
 などという発想が最初に浮かんできたが、自分が天邪鬼だということを分かっていたので、思わず苦笑いをしたものだ。
 だが、実際には当たり前の発想であり、逆に、
「どうして、他の人がそういう発想をしないのか、実に不思議だ」
 と感じていたのだった。
 どんでん返しというのは性格にもあるもので、一種の二重人格であったり、普段はどちらかの性格が表に出ているのだが、いきなり正反対の性格が表に出てくると、その時、もう一つの性格が出てくるだけの正当性を、どこかに求めようとする。
 いや、必要があって出てくるのだから、逆に出てくることを最初から分かっていたはずなのだ。本人だから当たり前なのであり、二重人格性というものが、特殊な性格だと思っている人もいるかも知れないが、松永は、
「皆にいえることだ」
 と思うようになった。
 それを感じ始めたのは、ある年齢くらいになってからだった。ただ、これが年齢によるものなのか、それとも、何かの心境の変化によるものなのか、自分でもハッキリとは分からない。何かのきっかけがあったということが分かれば、年齢に関係ないと言えるのだが、その感覚があったわけではない。そのために、年齢ではないかと考えてしまうのも、致し方のないことではないだろうか。
 ただ、もう一つ考えられるのは、
「自分が二重人格だと考え始めた時期に由来しているのではないか?」
 という思いもあったが、それはないような気がする。
 もし、自分に感じたのと同時期にまわりにも感じたのであれば、それ以前からまわりに対して予感めいたものがあったはずだからである。
 自分の性格に気づく時、自分に自覚があったかどうかはその時々で違っているが、いつも予感めいたものがあったような気がする。それが松永の自分に対しての、自分の評価ではないかと思っていたのだ。
 ただ、年齢的なものというのも、実は侮れないとも思っている。
 例えば、二十代から三十代になった時、自覚はしていた、つまり
「いよいよ三十代だ」
 という意識がなかったが、後から思うと、何かの節目があったような気がする。
 三十代から四十代になる時は、明らかに自覚をしていた、三十になった時とは明らかに違うのだ。それは、
「四十歳というのが、不惑と呼ばれる年齢」
 だからである。
 四十歳になると惑わないとよく言われるが、それは、孔子という人が、
「私は四十歳になると、迷わなくなった」
 という言葉を残したことから、
「四十歳にして惑わず」
 ということで、
「不惑というのは、四十歳という年齢を意味する」
 というだけのことなのだ。
 実際に他に根拠があるわけではない、ある意味、故事に対しての誇大評価とでもいえばいいのか、どこまでを表現するのか難しいところである。
 だが、そういう言葉というのは言葉だけを知ってしまうと、どうしても、
「四十歳になると、迷わない世代に入ってくるのだ」
 と思い込み、実際に四十歳を迎えて、迷わなくなった人というのがどれほどいるであろうか?
 そもそも、孔子と呼ばれる人は、世界的にも歴史的にも有名な人物で、一般人とは違うという意識である。そんな人が、
「四十歳になったら迷わなくなった」
 というのである。
 今の自分たちに当て嵌めるだけでも、おこがましい相手と言える人の言葉を鵜呑みにできるはずもない。知れば知るほど、言葉が実はあてにならないものであると言えることも結構あるのではないかと思われる。
作品名:骨散る時 作家名:森本晃次