骨散る時
というと、
「そうそう、その通り、確かに小説が売れるというのは、まわりがそれを買うんだから、まわりの評価が大切なのかも知れないけど、それも相手に訴えるものがあってのことよね。でもそれって、一歩間違えれば、押し付けになってしまう。そうなってしまうと、すべてが水の泡になるのよ。せっかく途中までは面白いと思って読んでいても、最後には押し付けと思わせてしまうと、すべてがなかったことになってしまう。そのうえ、相手に、読まなければよかったなんて思わせたら、元も子もないからね」
というのだった。
松永にはそれくらいのことは分かっているつもりだったが、分かっていることを面と向かって言われると、さすがに考えてしまう。
「ママのいう通りだね。僕は分かっているつもりなんだけど、敢えて、そのことを考えないようにしているのかも知れない。普段であれば、いつも何かを考えているんですよ。そしてその後に考えたとしても、何を考えていたのか分からないほど、重厚な考えなのか、それともよほど別の世界で考えていると思うからなのか、たった今考えていたことでも、ふっと我に返って思い出そうとすると思い出せない感じになるんですよ」
というと、
「それって、夢の感覚に似ていませんか? 夢というのは、私の感覚なんですが、目が覚めていくにしたがって、忘れていくような気がしませんか? 完全に目が覚めると、夢を見ていたという感覚はあるんだけど、あくまでそれだけで、どんな夢を見ていたかなどということは忘れてしまっているんでしょうね」
というのだった。
「それは僕も思っていたことなんだよ。でも、夢の中の記憶って、本当に忘れていくものなんだろうかってよく思うんだけど、なぜかというと、あとになってふと思い出す気がするんだよね。デジャブのようなね。だから、夢は忘れてしまうのではなく、意識を飛び越えて記憶に入ってしまうのではないかと思うんだ。そして、その記憶は他の記憶とは別のところにある、そうじゃないと記憶って現実のものと一緒になると、きっと頭の中が混乱すると思うんだ。だから、封印させる必要があって、それがいわゆる夢の封印という言葉に代表されるようなメカニズムになっているんじゃないかって思うんだ。ママさんはどう思う?」
「その通りなんでしょうね。でも、記憶の封印って、どこまでが夢なのかとも思うんですよ。中にはこれから起こることも一緒になっているんじゃないかとも思うんですよ」
「松永先生の作品ってどういう作品が多いの?」
とママに聞かれた時、
「最初は恋愛小説を書きたいって思っていて、それに、今なら書けるだろうと思って書いてみたんだけど、なかなかうまくいかなくてね。それからは結構迷走している感じでしょうか?」
というと、
「新人賞はどんなジャンルだったの?」
と訊かれて、
「そうですね。青春小説ぽかったかも知れないですね。どちらかというと、自分の経験に近かったかも知れない」
というと、
「自分の経験からだと、結構書きやすいかも知れないわね。でもそうなると基本はフィクションなんでしょう? だとすると、辻褄を合わせるところが難しくないですか?」
というので、
「ママさん結構鋭いところを突いてきますね。小説を書かれていたことあったんですか?」
と聞くと、
「ええ、昔ちょっとね」
「道理でママさんと話をしていると、話しやすいし、何でも言えるような気がしていたんですよ。でも、何を言われるかと思うと怖いところもあるんですよ」
「それはそうよね、人に本当は相談したいと思ってみても、人に読んでもらって、酷評を受けたりなんかすると、まるで自分の存在すべてを否定されたかのような気がしてくるから、それも分かるわよ。私も、前に書いた自分の小説を読んでもらった時、相当な批評だったので、ずっとショックが続いて、しばらく書けなかったもの。おかげで、私には無理だっていうことが分かったのよ、だからね、誰でもこのような経験はあるのよ。どのように乗り越えるか、あるいは、乗り越えられなかったらどうするか、結局はそこになってしまうのよね」
というママの話を訊いて、自分が今いるのがどのあたりなのか、また分からなくなってきた。
まだまだ悩みの底は深く、今は入り込んだばかりのところなのおか、それとも、何度か節目があったのに、その節目に気づかない。あるいはスルーしてしまったことで、諦めの悪い部類に入り込んでいるのかが分からなかった。
それは時間ではない、時間であれば、もうとっくに時効を迎えているくらいのものだ。
逆にずっと甘いことばかり考えているので、超えなければいけない川の前でずっと立ち止まってしまって、その場所にいることで、感覚がマヒしてしまったのではないかということであった。
足に根が生えてしまって、動けないことを当たり前のように思い、結局、前にも行けず、後ろにも戻れない人生、この場所で終わってしまうという覚悟を持てるかどうかということになるのかも知れない。
ただ、これは小説だけに言えることではない、対人関係に関しては、すでに覚悟を決めて、人との余計なかかわりを遮断するという境地に入っていた。結婚を諦めようと思ったのが、二十八歳くらいだろうか、完全に結婚がありえないと思ったのは四十歳を過ぎてからだった。
二十八歳以降でも、結婚する機会がないわけでもなかった。人から紹介されて付き合ったりしたことがある女性もいたが、男にその気がないということは女性にはすぐに分かるものだ。そして、その思いが相手に怒りを感じさせることになってしまうのだが、その理由は、
「こっちだって、時間がないと思って必死に出会いを求めているのに、まったく結婚しようと思っていない人と少しであってもお付き合いをすることになるのは、本当に時間の無駄なのよ。あなたにとって時間を無駄に使うのは構わないけど、人を巻き込まないでよね」
と言われてしまうと、弁解のしようがなくなってしまう。
逆に、
「だから、俺はこういう出会いの場なんていうのが嫌なんだ。その気がないのに、付き合わされる相手も気持ちも分からなくはないけど、こっちだって知り合いたくもない場所に連れてこられて、いくら顔を立てる意味での参加であっても、あそこまで相手に罵られると、俺だって溜まったものじゃない」
と言いたい。
そういう意味で、おせっかいなやつほど、無神経で悪気がないだけに、厄介なんだと思っている。
一度、そんな感じの小説を書いたことがあった。それも経験からの話だったが、結局最後は結末に焦点が定まらず、出版社の担当に見てもらったが、編集会議に掛けてもらえることすらできず、
「ただ書いただけ」
ということになってしまった。
小説家というものが、どんなものなのかも分からずに、書いていただけだということすら分かってもいなかったのだ。
作家への道