骨散る時
「ありがとうございます。分からないことがあれば、お聞きしますね」
と松永が言うと、
「はい、そうしてください。お夕飯は、夕方六時半に、お持ちいたしますね」
と言われて、松永が時計を見ると、ちょうど三時ということだったので、ひとっ風呂浴びて、小説を書けば、ちょうどいいくらいの時間になると思った。
「ありがとうございます、その時間でよろしくお願いいたします」
と言って、さっそく露天風呂に入ることにした。
前に戸点風呂に入ったのは、ゆかりと付き合っていた頃、ゆかりが行きたいと言っていた温泉に一緒に行った時だった。
付き合っていた期間がちょうど二年くらいだったが、付き合い始めて一年とちょっと経った頃であろうか。どちらからともなく、
「温泉行きたいよね」
と言い出して、温泉に行くということは、即決だった。
どこの温泉に行くのかということは、ゆかりが主導権を持って決めていた。
あまりこういうことを決めるのは苦手な松永だったが、
「私は、いつも一人だったので、温泉に行くとかいうことはなかったんですよ、だから、一度自分が主導権を握っていろいろ決めたいと思っていたんだけど、相手が松永先生だと思うと、嬉しくて、却って緊張してしまうわ」
と言いながら、ウキウキしているのがよく分かった。
「ごめんね。僕もずっと一人が多くて、そんなにしょっちゅう温泉に行ったことがなかったので、どこがいいか分からないんだ」
と松永は言った。
松永は、実際には温泉には一人で何か所か行ったことがあった。だが、どのどれもが一人で行くような宿で、しかも女性同伴という雰囲気のところではなかったので、そんなところに連れていけるわけもないということで、黙っていた。
実は、今回のこの旅館も、以前に来たことがあった。女将も仲居さんも覚えていないだろうが、松永は覚えていた。
あの時も小説を書くための一人旅だった。
男性が一人で泊まる宿というと、少しいかがわしい宿をイメージするかも知れないが、そういうわけではなく、一人で自分のやりたいことをやることができる宿という意味で、実際に小説家や、画家などの、本当の先生と呼ばれるような人が、籠って作業をするようなところであった。
さすがにプロの人ばかりだと気おくれしてしまうが、女将の話では、名前が知られていないけど、職業が作家というような、松永のような客が多いとのことだった。
だがら、今回のように、宿の方が必要以上に宣伝をするわけではない。客の行動に任せているのだ。
「分からないことがあったら、聞いてくださいね」
というのが、お決まりのセリフで、松永はsのセリフが気に入っていた。
ゆかりと一緒に行った宿は、本当にガイドブックに載っているような宿で、若い女の子が数人で来ることも多いという。一時期温泉ブームがあったことで、今でも温泉は観光地としても、根強い人気で、近くに名所旧跡などがあれば、観光と温泉のセットで、十分に産業として人気が出るというものだ。
そんな宿に一緒に泊った時、松永は、いつものように、執筆をしていた。そんな松永をゆかりは、飽きもせず、ずっと見つめている。見つめられると本来であれば、緊張から何も浮かんでこないのだろうが、その時は見つめられていた方が、筆が進んだのは不思議だった。
――どうしてなんだろう?
普通なら、見つめられれば、意識してしまって、何も書けないのに、その時は見つめられると、不思議とアイデアやそのアイデアにそぐう情景が浮かんできて、書いている小説が、
「本当に書きたいことを書いているんだ」
という思いを醸し出しているようで、書いていて楽しいと思うのだった。
松永とゆかりにとって、最初で最後の温泉旅行だったのだが、ゆかりは男性との温泉旅行は初めてではないと言っていた。
「私が大好きだった人で、処女を与えた人だったんだけど、その人と、ずっと一緒にいられるような気がしていたの。本当に嬉しくてね。でも、運命って残酷なものね、それからしばらくして、その彼は交通事故に遭って、亡くなったの」
とゆかりは言った、
「それは、残念だったね」
というと、ゆかりは急にベソを掻いたような顔になって、
「実はね。その人、奥さんがいたのよ」
というではないか。
「えっ? 不倫だったの?」
「ええ、でも私はどれでもいいと思った。好きになった人にたまたま奥さんがいたというだけのことだって、自分に言い聞かせていたの。でも、その不倫が奥さんにバレて、私も彼も、奥さんから、相当な罵声を受けたわ。そして、彼はついに、私から離れて、奥さんのところに帰ることにしたの。やっぱり、私のことは、遊びだったのよね」
と言って、悲しそうな顔になった。
「だから、彼が交通事故で亡くなったと聞いた時、正直、安心もしたのよ。でも、安心していると、今度は寂しさがこみあげてきた。そして寂しさを意識してしまうと、また安心感が募ってくる。その繰り返しだったの。私にとって彼は大好きな人だったんだけど、彼にとっては、そうでもなかった。ただ、好きというだけのことだったら、捨てられるというのは覚悟しなければいけなかったんでしょうけど、結局それをできなかった。だから、私も悪いのよ、彼ばかりを責めるわけにはいかない。でも、これで永久に会えなくなったと思うと、無性に寂しさがこみあげてきたんだけど、その逆に、私以上に、奥さんは苦しんでいるはずだと思うと、それが、私にとっての安心感だったのね。この相反する思いは、それぞれシーソーのように、どちらかに人が乗れば、乗った方が下に落ちるという単純な構造をしているはずなの、でも、必死に平衡を保とうとしていることから、結局は、どちらかに重みが入ってしまって、途中で止めることができなくなってしまったのね。何かショックなことがあって、立ち直れない原因は、平衡を保つことができないことに原因があるのだと、私はその時になってやっと気づいたのよ」
と、ゆかりは言った。
「それはね、気付けただけでもゆかりちゃんは素晴らしいと思う。普通は何となくあ歯分かっていても、見えているようで見えないのが、そういう時の落ち込みであってね。まるで道に落ちている石ころのように、見えているのに意識がない。まさにそんな状態なのかも知れない。隣にあるのに気付かない。それが、もし自分にとって危険なものであったとすれば、これほど怖いことはない。だけど、結果としては知らぬが仏になっているんだよ。そうなることで、なかなかループから抜けられなくなる。僕はそれくらい深いものだと思うようになったんだ」
と松永は言った。
松永のこの気持ちは、小説を書いているから、ここまで感じることができるようになったのだと思った。だから、小説を書いていない人には感じることはない。少なくとも芸術的な感性がなければ、この思いに至ることはできないと思っていた。
ただ、この思いが正解なのかどうかは分からない。感じることはできても、それがいいことなのか悪いことなのか、松永には分からない、分からないだけに、その落ち込んだ時の長さが、気になるところであった。