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骨散る時

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 むしろ、怖いことを自分の中でどうしても言わなければいけないという意識の元、最後に帳尻を合わせたかのようないい方になっていたのだ。
 それを思うと、ゆかりが何かの運命に突き動かされているかのように思い、その時初めてゆかりと知り合ったことを恐ろしいと感じたのだ。
 それまでにも、本来なら恐ろしいと感じさせるようなことを言ったりしていたと思うゆかりなのに、恐怖も不安もそれほどゆかりには感じなかった。それどころか、自分にとっての不安を取り除いてくれそうな相手で、実際に大きなところでの不安を取り除いてくれたように思えたのだ。
 それだけ、ゆかりという女性は松永にとってかけがえのない人になってしまっているのだろうが、どこか洗脳されているように思えるのがきっと恐怖の元凶なのだろうと思うのだった。
「逢えなくなるならそれでもいい」
 という思いもあったが、実際には、会えなくなったことで自分が感じる不安や恐怖が計り知れないことで、会えなくあることが冒険であるかのように感じてしまうのは、そう解釈すればいいのか分からなかった。
 そのうちに、佐久間は退院できるようになり、その頃にはすでに松永はゆかりと離れられなくなっていたのだが、そこに恐怖が潜んでいることをまわりは分かっているはずもなかった。
 つまりは、まわりは、二人の仲は公然の秘密のようになっていて、もっとも本人たちは隠そうという意識はなかったのだが、どこか秘密めいたところがあったのが、まわりには違和感だったのかも知れない。
 しかも、松永が不安を感じているということをまわりが知るすべがなかったのは不思議だった。
 松永は隠そうなどと思っていたわけではない。むしろ曝け出すことで、まわりがどういうリアクションを示すのかを感じたかったと言ってもいいだろう。
 だが、期待したリアクションが見えたわけではない。自分の期待が裏切られた気分だ。
「どうせ、俺の思惑はまわりに伝わることなどないんだ」
 と結局最後はいつもここに行きつく。
 松永が思春期の頃から、人と関わりたくないと思うようになったのは、このあたりに原因があったのかも知れない。
 そもそも人と関わりたくないと思ったのは、思春期の頃に感じた鬱状態が原因だった。
 思春期の頃というと、不安というものを本格的に自分で感じるようになる時期だと松永は考えていた。
「何をやっても、うまくいかない。うまくいったとしても、本当にそれがいいことなのか分からない」
 と、一つのハードルを越えると、普通であれば、その勢いを買って、どんどん先に進めていけるような気がするのだが、松永の思春期は、逆だったのだ。
 負の連鎖が立て続けに起こることで、何をやってもうまくいくはずがないという精神的な負のスパイラルが襲ってくる。
「俺って、このまま思春期の中でずっと何かを繰り返すことになるんじゃないだろうか?」
 という考えが頭の中をよぎってしまった。
 何が言いたいのかというと、
「まるで同じ日を繰り返していて、抜けられないようだ」
 という妄想が頭の中に浮かんでしまったことだった。
 その時に急に感じたのは、同じ日を繰り返すことの恐怖ではなく、
「どうして、一日って、午前零時から午後十二時までなんだろうか?」
 という思いだった。
 もし時計がなければ、時間というものが正確に理解できていなければ、午後十一時五十九分と午前零時とでは、何が違うというのか。
 日の出や日の入りなどのれっきとした昼と夜の境目が分かっている時を一日の分かれ目にしてしまった方が分かりやすいだろう。
 確かに季節によって、日の出も日の入りも変わるので、一概には言えないだろうが、ではどうしてと考えるのは、
「毎日が同じ時間でなければいけない必然性はどこにあるというのか?」
 ということであった。
 確かに、一日の長さが違えば、それぞれの人に不公平ではあるだろう。だが、もっと究極なことを言えば、
「人間の寿命というものだって、一人一人違うじゃないか。皆が皆寿命をまっとうしたとして、本当に全員が何歳まで生きるということが決まっているのだろうか? それこそ、不公平の極みと言えるのではないか?」
 という思いであった。
 この究極の考え方に比べれば、毎日が違う長さであるくらい、問題がないような気がする。そもそも、一日の句切れというものはどこから来るというのだろうか? 一日という単位は一体誰が決めて、何に必要だったというのか、そこまで考えると、人それぞれの平等など、あってないようなものである。
 確かに生活していくうえでの便利さから一日や一か月などと言った単位は必要であろうか、最初にその単位を決めた人が、結果として必要となったことを最初から、目的をもって定めたものだと言えるのだろうか。もしそうだとして、結果と違っているのかいないのか、果たしてどっちなのだろう?
 考えれば考えるほど、深みに嵌っていくような気がする。
 昔、漫才師の言っていた笑い話を思い出した。
「地下鉄って、どこから入れたのかを考えていると、夜も眠れなくなっちゃう」
 というのを似た理屈だ。
 その逆だけで、ずっとその漫才師は飯が食えたと言ってもいい、それだけ、どうでもいいと思うようなことが重要だったりするものである。
 要するに、「午前零時を過ぎると次の日になる」
 という当たり前という以前の問題だとも思えるようなことが、どれほど大切かということである。
「人は、呼吸をしなければ生きていくことができない」
 こんなことは当たり前である。
 誰がいうでもなく、実に当たり前のことである。しかも、皆息をしている時に、
「呼吸をしている」
 と意識している人がいるだろうか。
 条件反射に近い感覚を当たり前のことを当然とも思わず、意識すらしていないことというのは、意外とたくさんあるのだろう。
 これらのことを、
「生まれた時からずっと」
 と思っている人も多いだろうが、実は違う。
 もっと昔からのことで、遺伝子を使って、脈々と受け継がれてきたものだと言えるのではないだろうか。
 そんな昔から続いていることなので、誰も何も教えてもらう必要もなく実行している。
 生まれた瞬間から呼吸をしているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。誰かに教えてもらう暇などあるはずもない、
 赤ん坊が生まれてきてからすぐに、呼吸をしていない子供もいるようだが、先生が足を持って、逆さ吊りのようにしてから、身体を軽く叩いてあげると、泣き声を上げて、呼吸を始めるというが、まさしく、身体が覚えているという証拠であろう。
 そんなことを考えていると、
「ゆかりに会えなくなったことを、誰が悪いというわけではないので、きっと、悲しんでいる人は、皆自分が悪いと思っているからではないかな?」
 と思ったのは、かなり贔屓目にまわりを見たからだった。
 まさかそんなことなどあるはずがないと思いながらも、目の前からいなくなった人をこれまでどのように感じていたのかを思い出していた。
 最近の松永は、人とあまりかかわりがないからか、死んでしまった人を、あまり意識していないような気がした。
作品名:骨散る時 作家名:森本晃次