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骨散る時

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 と思うほどのキャラクターであることには違いないが、果たしてこれまで人とのかかわりを徹底的に拒否してきた松永に、どういう関係性の相手としてゆかりと接すればいいのか、なかなか答えは見つからなかった。
 不倫をしていたと聞かされた時、
「いとおしい。お互いの癒しになればいい」
 と思ったのは確かだったが、そこから気持ちが変わっていったのかは、話をしていて、話の内容に圧倒されたのか、気付くまでもなかった。

             ゆかりの運命

 そんな彼女がどのようにして不倫をやめることになったのか、さすがに松永からは訊けなかった。聞きたいという思いは当然のごとくあったので、訊きたいというオーラはゆかりも感じていただろうが、やはり話しづらいのか、自分から話すことはなかった。
 いや、彼女のことだから、話したくないという思いが頭にあり、意識的にか無意識にか、自分の不倫というものに対しての気持ちを敢えて先に松永に聞かせたいと思ったのかも知れない。
 松永にとってのゆかりへの思いは次第に募っていった。ナースという仕事も、松永を引き付けるきっかけになっていた。
 松永は、子供の頃から、ナースというものに、特別の感情があった。あの頃は、看護師と呼ばずに、看護婦と呼んでいたっけ。男女雇用均等法なるもののせいで、女性と男性との間に呼称が違っていたものを統一しようなどと誰が言い出したのか、
「前の呼称の方がよっぽどいい」
 と思っている人は、松永だけではないだろう。
 有名なところでは、スチュワーデスがキャビンアテンダント、保母さんが保育士、さらには婦人警官を女性警察官と呼んだ李、さらには、看護婦のように、婦を師(士)と呼ぶようになった、これは男女の差別をなくすという意味であるが、松永には違和感があった。
「ただ、いい回しが違っているだけで、どこが差別だというのか?」
 ということである。
 最近では、あまりにも男女差別について言われることが多い、コンプライアンスの中のセクハラなどという言葉にもあるが、
「女性だから、差別を受けるというのは許されない」
 ということからの問題なのだろうが、逆に言えば、その前提には、
「女性だから」
 ということがあるはずである。
 人として(人に限らずほとんどの生物であるが)生まれてきた場合、生まれながらに男女に別れているわけであり、それを避けて通ることはできない。
「女性だから、損をする」
 ということがあるのであるわけなので、
「女性だから、得をする」
 ということだってあるだろう。
 これは極論であり、大いなるバッシングもありかも知れないが、男性では稼げない方法も、女性ならばこそ、女性の武器を使って、稼ぐことができるといえるものだってあるのではないか。
 あくまでも雇用均等という法律で、そのための呼称変更であり、男女差別という問題を最初から狙っての問題であるかのような誤解を与えると、女性の中には、大きな勘違いをするものがいたり、必要以上の権利の行使に繋げようとしたりする女も出てくるのではないだろうか?
 そのために、セクハラでもないものを、いかにもセクハラされたと言って騒いでしまうと、
「被害者が女性だから」
 というだけの理由で、その女性の言い分が通ってしまうという風潮もあるかも知れない。
 もちろん、そんな冤罪を起こさないように、キチンと見ている人がほとんどであろうが、あざとい女にかかれば、引っかからないとも限らない。
 実際に、犯罪の中では、痴漢をわざとさせておいて、後から男を集団で脅迫するような事件や、女に男を誘惑させて、ホテルに入ったところを、
「俺の女になにしやがる」
 などという、昔からあることではあるが、いわゆる美人局なるやり方で、男から、大金を巻き上げるという方法だって、あるではないか。
 こういうものを野放しにしておいて、男女平等だけを謳うというのは、いかがなものか?
 それを思うと、男女間で何が平等で何が差別なのか、よく分からなくなってくる。下手に差別を問題にし始めて、女性に歩み寄ってしまうと、ちょうどいいところで止まらなければいけないものが、通り過ぎてしまって、却って、男性側に不利に働くことだってないとは限らない。
 そういう意味で、松永は男女雇用均等を、そのまま男女差別の問題に置き換えるのは、正直反対であった。
 そういう問題は、男女の問題だけではないだろう。
 一つの何か問題があれば、それを誇大解釈し、問題をすり替えようとする輩も出てくることは今に始まったことでもない。
 特に政治の世界にはありがちなことではないだろうか。
 何か不祥事が持ち上がった時など、自分の政治権力を用いて、まわりを動かしたり、マスコミによる情報操作を使うことで、問題を他のことに転嫁しようとする人間が出てくると、どれだけマスゴミ(敢えてマスコミとは書かない)を利用して、世の中を錯乱させることで、自分の問題を他に転嫁できるかということが問題になる。だから、新たな問題を提起しておきながら、まったく解決させようとしない、特に権力を持った人間による問題が、世の中には結構起こっている場合があるのではないだろうか。
 表向きは、世の中に問題提起し、そこにマスゴミが集ることで、世間の目を引き付けている間に、自分の問題をあやふやにしようとしている。だから、問題提起を行った人間からすれば、問題提起をしたことが社会問題になっている間というのは、自分のことに精いっぱいで、問題に対して誰も携わっているわけではない。
 つまりは、独り歩きをしていて、どこに着地をするのか、コンダクターがいないので、迷走していることだろう。
 しかし、えてしてそういう場合にこそうまくいくように世の中というのはできているものなのか、意外と問題はスムーズに解決されているようだ。
 そんなことを考えていると、確かに、どこから湧いてきたのか、出所の分からない問題が、政治の世界から沸き起こってくることがある。まさかそれが政治家の中での、自分の目を他に逸らすための陰謀であり、ごまかすためだけのことであるというのは罪深いことではないだろうか。
 何しろ、自分に関わっている問題の責任のなすりつけ合いでもないのだ。同じ問題の責任のなすりつけ合いであれば、まだ理屈は分かるのだが、まったく関係のないところからリークのような形で問題を表明化させられてしまうと、そちらの方としても、防ぎようがない。
 そんな状態がどれだけの頻度で問題化しているのかということまでは分かっていないが、想像しているよりも多いのではないだろうか。
 考えてみれば、毎日のニュース。一日たりとも、平和に終わった日はないではないか。政治の問題にしても、スポーツやエンタメにしても、必ずと言っていいほどに問題が浮かび上がってくるものである。
 それだけ、世の中には表に出ない問題もたくさんあるということであり、うまいこと同じ日に重ならないようにもできているということなのか、いや重なっても、次から次に発生する、まるで害虫のようなものなのかも知れない。
作品名:骨散る時 作家名:森本晃次