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骨散る時

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 それが疑似恋愛でもいいという思いから、風俗で使うお金をもったいないとは思わない。もし恋愛をして、誰かと付き合っても、デートしたりして、一定の期間を使って仲良くなり、さらにお互いに恋愛感情を持つことで、結婚を考え始め。そこで、やっと結婚ということになる。近楽にしても、結婚するにしても、莫大なお金と時間が掛かるのだ。
 特に結婚式など、なぜあんなにお金がかかるのかということが、疑問で仕方がない。
 デートだって毎回のデート代もバカにならない。結婚することになっても、結納であったり、婚約指輪、さらには結婚式ともなると、それだけで、数百万である。
 そんなにお金をかけたって、別れる時は別れる。そう思うと、一体何が大切なのか、それが分からなくなってくる。
 そういう意味でも、松永が小説家として生きていた時代が相当過去のものであり、本当に事実だったのかということすら、自分でも分からなくなってきていた。
 これも一種の頭の中で考える矛盾だった。
 小説を書く時でも、
「想像と現実の板挟み」
 という矛盾を孕んでいる。
 ただ最近は、小説を気楽に書いているということで、少し矛盾に対しての感覚が変わってもきていた。
「想像と創造の板挟み」
 だと思うようになっていたのだ。
 想像というのは、変わらないが、現実というところを少し前向きに、そしてポジティブに考えて、
「創造」
 という言葉に当て嵌めるようになってきた。
 小説を書く上において、松永の思い描く想像というのは、考えていることを頭に描いて、現実のようにストーリー化してみたりすることである。
 では、創造というのはどういうものであるかというと、あくまでも、元は現実であり、その現実を、想像するかのようなイメージで紡ぐ。つまりは、現在起こっていないことを未来に起こることだとして、頭の中で作り上げることだが、それは現実から想像への領域を超えるものでは決してないということである。
 ただ、最近では、その創造の方が頭の中で曖昧になってきている。気が付けば現実として捉えているのだ。
 そんな自分を意識していると、以前の小説家として意識していた時のことを思い出す。それは、有頂天であった頃のことではなく、小説家として、売れないということの葛藤に悩んでいた頃のことであった。
 その頃のことを思い出すのは苦痛でしかないのに、さらに、病院で自分のファンであるなどという女の子が現れたことが自分にとって、精神的に追い打ちをかけるのではないかという、漠然とした不安を持ったのであった。
 その不安が的中してほしくないという思いと、忘れていた恋愛感情を思い出させてくれたことは、相反する感情であったのだが、これも忘れかけていたドキドキ感を思い出させてくれたような気がした。
 正直最近、欲求に不満すら感じなくなってきていた。身体は反応するのだが、恋愛感情に匹敵するようなドキドキ感を必要としないという思いに至っていたのだ。
 小説を書いていて、
「想像と創造の矛盾」
 を感じるようになってきたのは、この頃からだった。
 完全に、感情がマヒしてきたのではないかと思い始めたのだった。
 そう思えてくると、記憶が定かではなくなってくる。毎日が同じパターンの繰り返しであるということも災いしているのかも知れない。
 五十歳になると、とたんに身体のあちこちにガタのようなものが現れてきた。
 腰痛であったり、足が原因不明の痛みに襲われてみたり、重たいものを持つわけでもないのに、肩痛になってみたりと、自覚できるだけでもいくつかの症状が現れてきた。
「何か、若返りに必要なエキスを探さなければいけないのかな?」
 とも感じ始めたが、いまさら若返ってどうしようというのか。
 恋愛をするわけでもない。小説を書く以外に何かを始めたいという意識があるわけでもない。
 サラリーマンであれば、
「定年退職後の第二の人生」
 という、一つの節目があることで、何か老後の楽しみを探そうという気力もあるのかも知れない。
 少なくとも定年退職に至るまで、曲がりなりにも一つのことをやり遂げたという達成感があるからだろう。
 そう、自分にないものは達成感なのだ。
 最初に小説を書いていて、新人賞を受賞するまでは、少なくとも達成感があった。まだまだ先が見えているという感覚があったからで、小説を書き終えると、自分の中で節目を感じていて、それが達成感であったということをあの頃は意識していたはずだった。
 新人賞を取ってから、その感覚が薄れていき。小説家としての有頂天というわずかな時期を通り過ぎ、苦悩の末に考えた、
「ただ、書き続ける」
 というだけの、プライドを捨てた悟りのようなもので書き続けることが、次第に別の意味のプライドを形成していったのだ。
 では、それまでのプライドと今のプライドでは何が違うというのか?
 それは、達成感の有無ではないだろうか、すぐに分かりそうなこんなことでさえ、分からなかったというのは、それを感じさせてくれる外的な刺激がなかったということであろう。
 人と関わらないということは、外的な刺激を自分でシャットアウトしたことであり、
「人のふりを見てわがふり直せ」
 ということわざがあるが、それすらないと言えるのではないだろうか。
 松永は、それでもいいと思っているうちに、五十歳を超えてきた。そして、身体にガタを感じるようになってから、余計にその思いが強くなってきていた。そもそも、年を取るほど、人と関わらなくなるのが人間ではないだろうか。
 人によっては、サラリーマン時代に、嫌というほど人に関わってきたことで、定年退職してからは、人と関わらずに自由に生きようと思っているであろう。
 それは、本当の意味での人とのかかわりの煩わしさを知っていて、もういい加減に嫌だとまで感じているからこそできることだとも言える。
 サラリーマンをしていても、そこまで人と関わらずに仕事ができる人もいる。そんな人は、きっと、定年退職後も、人と関わって行こうとするに違いない。もし、ここで人とのかかわりを解いてしまうと、残るのが孤独だけだということが分かるからだった。
「一人暮らしの老人が、孤独死をしていて、それが一か月近くも見つからなかった」
 ということも結構あるようで、その惨めさを考えてしまうというのもあるだろう。
 しかし、松永としては、
「一人で勝手に死んでいくんだから、それを惨めだという感覚がどこにあるんだろう? 死んでしまえば皆平等ではないか?」
 と思うのだった。
 考え方によっては、死後にも世界が広がっていて、死んだ時の状況で、その先の世界が決まってくるというようなものもあるようだが、
「そんなことは、小説のネタにこそなれ、現実的に考えることではない」
 と思うようになっていたのだ。
 松永は、そう思っていたのに、ナースであり、自分のファンだという金沢ゆかりに出会ってしまった。それはいいことなのか悪いことなのか(悪いことということはないと思っていたが)、要するにどこに転ぶかという意味で、まったく想像もできなかった。
 いや、松永とすれば、
「創造もできなかった」
 というべきであろうか……。
作品名:骨散る時 作家名:森本晃次