骨散る時
あまりママは松永の作品を褒めてくれることはなかったので、しかも、その時はぽつっと口にしただけで、気を抜いていれば聞き逃してしまうのではないかと思うほどであった。
ママさんは時々、松永の作品を読んでくれている。松永も執筆はしているが、出版社が採用してくれなかったたくさんの作品を、お釈迦にすることは少し気が引ける。
ママさんはあまり批評をすることはないが、それはきっと自分の役割をわきまえているということであろう、
ママさんの批評はないが、他の客で、松永の作品を読んでくれる人がいた。その人は、最初手厳しい内容の話をしたので、
「あまり関わらないようにしよう」
と思ったのだが、最初に読んでくれた作品への批評は、訊いていて適格であり、次回作へのヒントが隠れていたりで、その人にだけは、いつも作品を読んでもらっていた。
本人は、そこまで感じていたわけではないのだろうが、どうやら、彼も一度は小説家を目指したことがあるようで、
「俺の方が諦めが悪かっただけだよ」
と、いうのが松永だったのだ。
彼がいうのは、
「小説というのは、自分の中のイメージをいかに書き出すかということだと思うんだよ。誰かに読んでもらいたいとか、ましてや、売れたいなどというのは、まずその先にあることで、確かに人が読んでどう感じるかということは大切なのかも知れないけど、そればかりを意識していると、大切なものを見失ってしまう。野球のバッターだってそうじゃないか。どの方向に向かって打てばヒットになるかとか、どうすれば、ランナーを進められるかということも大切だ。チームプレイだからね。でも、まずは、バットに当てなければ何も始まらない。バットに当てることに集中しなければいけないんじゃないかな?」
というと、
「でも、監督はその選手ならそれくらいのことはできると思って使っているんじゃないかな?」
「だけどさ。いくらできるはずの選手であっても、バットに当てるという基本を頭の中から外してしまっては、結局バットは空を切ることになるんじゃないかな? 要するに、基本あっての応用なんだよ。原始時代しか知らない人に、いきなり明治維新の話をするようなものなんじゃないかな?」
と、彼は面白いたとえ話をした。
なるほど、話はあくまで基本が大切だということに終始することになるだろう。ここで野球の話を持ちだしてくるあたり、かなりの面白い発想の持ち主だといえよう、ただ、野球の世界にもプロモいれば、アマチュアもいる。ほとんどプロと言ってもいいアマチュアもあれば、アマチュアと言ってもいいプロモある。スポーツによってもバラバラだと言えよう。
松永は自分の作品をほとんど読み直したことはない。推敲が苦手であった。最初に書く時も、思いついたことをどんどんと書いていく、思い付きを重ねながら書いているので、数行先のことをイメージしていると、筆が止まることはない。だから、勢いで書けるのだし、プロットとは若干離れたところを書いてしまうこともあったりした。
そもそも、再sっはプロットなど作ってもいなかった。途中から、プロットを作るようにしたのだが、またある時を境に、プロットは書き出しの部分と、骨格と言える大きな部分、つまりや書き出しの情景や、テーマくらいしか決めておかず、書いていくうちにストーリーがイメージされていくのであった。
その時に困るのが、
「どこまで書いたのか分からなくなる」
ということであり、前に書いた時のイメージをどれだけ思い出せるかが大きな課題となっていた。
時間が経つと忘れてしまう。それは集中することによってイメージができあがり、出来上がったイメージで、作品は先に進んでいくのであった。
だが。集中が一度切れてしまって、他のことに没頭すると、今度は、前に高めた集中力とは違う集中力がよみがえってくる。
そのため、なるべく間を置かずに書くことを心掛けるようになったが、どうもうまくいくとは思えなかった。
つまり、集中力の持続は、時間に関係していないのではないかということである。
時間だけを追いかけてしまうと、時間に追いかけられている自分が分からなくなる。
そんな時間との追いかけっこをしてしまうと、無限のループに這いこんでしまうと、今自分がどこにいるか分からなくなってしまう。この考えが、
「始めることよりも、終わらせることの方が数倍難しい」
と言われることとリンクしているのではないかと思うのだ。。
結局ここに考え方が戻ってくることで、自分が先ほど考えた無限ループの発想が証明されるのではないかと思えてくる。
無限のループは交わることのない平行線を作り上げ、見えない結界を意識しなければならなくなる。
それを思うと、小説を書いていくということが、無限ループではあるが、そのループには限界があり、その限界をいかに無限にループするかということを表しているのではないだろうか。
そのことを、教えてくれたのが、批評をしてくれる彼の存在で、それは、手厳しい批評からでしか現れないものなのかも知れない。
松永は人の批評を甘んじて受け入れるほど度胸があるわけではない。一生懸命に書いていることを批評されるくらいなら、ただ自分の道を貫けばいいだけだ。
そう思っていたが、腐ってもプロであるという自覚を見失うところである。自由にやるとしても、その自覚だけは失ってはいけないのではないだろうか。
ただ、最近では、趣味としての小説を書くことが多くなったので、自分が小説家であるという意識が少なくなってしまった。実際に知っている人も少ないし、知っていても、話題に触れてはいけないという思いを知り合いは感じ、気を遣ってくれているのか、誰も何も言わなくなっていた。
そんな思いも手伝って、小説を書くということをしなくなってしまったのだ。
それなのに、いまさらのように、この病院に見舞いに来てしまったことで、小説家というワードを思い出させる人が現れようとは思ってもいなかった。
確かに彼女には悪気はない。悪気はないどころか、ガチのファンだというではないか。
しかも、
「霧の円盤」
という作品が贔屓だというのは、正直松永の中で気に入ってもらいたい作品であることに違いはなかった。
自分が小説家であることをまわりは気を遣って誰も触れようとしない中、自分でも意識しないようにしていたというよりも、意識をしないようになったと言った方がいいかも知れない。
それなのに、敢えてファンだと言われると、照れ臭い思いもある。しかも、自分よりもだいぶ若いナースだということは、照れ臭さを通り越して、いつ以来になるのか、恋愛感情も沸き上がってきた気がした、
「恋愛感情が死滅したのって、いつ頃からだっただろうか?」
人と関わりたくないと思うようになり、恋愛など、
「恋愛感情に至る前のドキドキ感さえ味わえればそれでいいんだ」
という思いがあった。