昭和から未来へ向けて
「トラウマが自分の中にできてくると、嫌なことは忘れたいだとか、思い出したくないと思うようになると思うんだ。飽きっぽいというのは、言葉としてはどうかと思うけど、皆自分に対して正直になろうとする気持ちが強ければ強いほど、相手に求めるものがあるような気がする。自分が正直であるということを相手に分かってほしい。そしてそれが悪いことではないと思ってほしいって、相手にどうしても期待してしまう」
と、彼は言ったが、
「それが表に出る人と出ない人がいて、あなたのように出やすい人は、それが形を変えて、飽きっぽく見えるんじゃないかしら? あなたが飽きっぽいと思っているのは、本当は好きなものをとことんやってみたり、食べてみたりを繰り返すことができるだけに、一度飽きてしまうと、見るのも嫌になるでしょう? その原因から結果にいきなり飛んで行ってしまう発想があなたの中にあって、それを飽きっぽいと思うことで、あなたの勘違いは起こってしまったと思う気がするの」
と、彼女は言った。
「ちょっと話が難しくなったね。とても、頭の中で整理できない気がするな」
と久則がいうと、
「そこまで思う必要なんてないと思うのよ。飽きっぽいということを、悪いことではないと思えてようになれば、きっといい出会いもあるだろうし、楽しい気持ちでいつでもいられるような気がするんだけどな」
という彼女に、
「僕は正直、人と今はあまり関わりたくないんだ。ここで君と話ができるだけで十分だと思うし、他の人とでは、ここまでの話はできないような気がするんだ。それだけ君がたくさんの人を見てきたという証拠なのかな?」
というと、
「そうかも知れない。でもあなたがそれでいいならそれでいいと思う。月並みな言い方だけど、結局、自分の人生は自分にしか歩けないのよ。恥ずかしいとか、まわりばかり気にしていると、何もできなくなる。それでも自分の成長のためには仕方がないと思うか、わだかまりを捨てて、自分らしく生きるのがいいかという選択になると思うんだけど、それがよかったかどうか。いずれは分かるということなんでしょうね」
と言って、彼女は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「それがいつなのか分からないということは、下手をすると、その時が来ているのに、自分で気付かなかったりしたりはしないかな?」
と久則は言った。
「それはあるでしょう。だからこそ、自分を他人事のように思って、その隠れ蓑として、飽きっぽいと考えるのであれば、ある意味、その答えが分かってくることになるかも知れない。でもね、これって究極の理屈になるから、そのことに気づいても、それをどうこうできるわけではない。ただの答え合わせなだけだということなんでしょうね」
と、彼女は言った。
それが、今、令和三年の今ということになるのか、久則には時代が巻き戻されたかのような錯覚を感じているのだった。
時代が移り変わり、今は令和の三年になっている。すでに五十歳を超えていて、六十歳に近づいてきているが、今でも夢を見ているような感覚でハッキリと思い出すことができる。
大学時代、近くにあったクラシック喫茶。野球を見に行ったこと、会場という宗教団体のこと、人とのかかわりを億劫に感じ、風俗の女の子と話をしたこと。不思議とそれ以降のことがほとんど言って思い出せない。
「三十歳を過ぎるとあっという間だ」
と言われるが、まさにその通りだった。
もちろん、節目節目は思い出せるのだが、その思い出したことが決して時系列ではない、三十歳後半くらいのことの方が、まだ中学時代を思い出す方が身近に感じると思わせるほどに昔のことのように感じられるくらいだ。
きっと、それだけ思い出すことがないほどに、自分の中で大したことではなかったということなのだろう。
三十歳くらいまでは、明らかに自分は前を向いて歩いているはずだった。
いや、今だって前を向いて歩いているはずなのに、なぜ、感覚が違っているのだろう。きっと、三十代から先が、考え方に大きな変化がないからなのかも知れない。その時点で成熟したということであればいいのだが、そうでもないような気がする。どちらかというと、
「成長が止まってしまって、後は老化が進むだけだ」
ということになるのではないだろうか。
最近では、自分の人生に先が見えてきたような気がしているのに、気持ちはまだ二十代のままだという感覚がある。
それはきっと、先が見えたことで、漠然とであるが、何をすればいいのかが見えてきたからなのではないだろうか。
それがいいことなのか悪いことなのか分からない。分からないが、自分で納得して理解できるという考えは、少なくともそれまでの自分にはなかったことだ。
「将来が見えてこないと分からないこともあるんだ」
と考えると、宗教団体と思しき、あの「会場」での会話を思い出してしまう。
確かあの時に感じたこととして。
「人生ってね、年を取るということがどれだけ重要なのかって分かることがくるものなんだよ」
と、言っていた人がいた。
その人が言ったどんな人だったのか、そして、いくつくらいの、男だったのか女だったのかもわからない。この話も後になってから思い出されたくらいで、最近、よく思い出すことであった。
あの時は女性の、しかも、三十前くらいの人としか話をしていなかったはずなのに、どうしてこの記憶が残っているのか、実に不思議な感覚だった。
あの団体は、何かの事実があって、それをカモフラージュするかのような団体だと思っていたが違っていたのだろうか?
いや、そういうことでもないような気がしてきた。
どちらかというと、今の時代に近いような団体ではなかったかと思えた。
そういえば、おかしなことを言っていた人がいたのを思い出した。
「もし、ここであなたと縁が切れたとしても、必ずまたあなたの意識が私たちを思い出してくれる。その時にまたお会いできるのではないかと思っていますよ」
と言っていた。
そのことを思い出していると、
「すみません、少しお時間よろしいですか?」
と言ってくる初老の女性がいた。
「私たちは、人の人生について考える団体なのですが、ご一緒にあそこの会場で、お話しませんか?」
と言われ、ビックリして彼女の指差す方向をみると、まるでロールケーキを半分に切ったかのような見覚えのある会場が見えた。
「お兄ちゃん」
と言われ、ビックリして振り返ると、そこにいたのは、記憶の中ではシルエットになっていたはずの、あの会場で久則を、
「お兄ちゃん」
と呼んだ、高校生の女の子だった。
「だから、また会えるって言ったでしょう? お兄ちゃんは、将来の世界を今垣間見ている証拠なのよ」
と言って屈託のない笑顔を向けている。
きっと久則もその時、大学生に戻って、彼女に笑顔を向けていることであろう……。
( 完 )
[福岡1]
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作品名:昭和から未来へ向けて 作家名:森本晃次