一周の意義
それなのに、その気持ちを抑えてまでも、コンビニの自分を知られたくないと思うのは、さおりになった自分を、聖なるものだと感じているからではないだろうか。
本当はそこまで考えたくないというのが本音だった。
「さおりはあくまでもお金を稼ぐための、自分の仮の姿だ」
という思いが強い。
しかし、さおりという人格を、それだけに収めてしまうのは、もったいない気がするのだ。
さおりという女性を自分の中で、
「聖なるもの」
としてしまいたいのは、自分が思っているよりも、普段の自分を、自分自身で自虐的に思っているからなのかも知れない。
さおりだったら、普段の聡美を悪く言ってもいい存在だ。何しろ自分本人なのだから、誰に言われても腹が立つとしても、本人であれば、腹を立てる要素がない。それでも腹が立つのであれば、気持ちの矛盾が次第に自分を支配していき、聡美がさおりに、さおりが聡美にとって代わろうという気持ちが現れ、果たして最後に勝ち残ったのはどっちなのか、見ただけで分かるだろうか。
そんなさおりを好きになった男性がいた。彼は、聡美がさおりになってから半年ほどしてから来るようになった客で、最初は先輩に連れてこられたのが最初だった。
「こいつ、気が弱いやつで、仕事は早いんだけど自信が持てないからか、何度も提出までに時間が掛かってしまうことで結局遅れてしまって、まわりからどんくさいと言われるようになった、本当にどんくさいやつなんだ」
と先輩に罵倒されても、
「そんな、先輩……」
と言って、ハスキーで泣きそうな声を出しながら、ベソを掻いていた。
「こいつを誰か男にしてやってくれるような便りになる人いないかなって思ってるんだけど、さおりちゃん、どうだろうか? 何とか面倒みてやってくれないか?」
と、先輩は懇願していたが、どこまでが先輩の本心か分からなかった。
先輩もひどいが、この男も情けない。
「こんなだから、先輩から言われ放題なんだわ」
と思った。
だが、さすがに本心が言えるわけもなく困っていると、
「ほら、さおりちゃんだって困ってるじゃないか。お前は本当にどうしようもないやつだな」
と、さらに責め立てる。
この男は本当にサディストだと思ったが、そこまで言われても、ヘラヘラ笑っているだけの男が本当いマゾなのかと言われると、疑問に感じられた。
マゾであることは間違いはないだろうが、サドと融和できるタイプのマゾかというと、どうなのだろう?
サドマゾの関係というと、やはり、磁石のSとNのような関係でなければダメであろう。ただでさえ危険なプレイも行われる。お互いに信頼関係がなければ、できない行為である。信頼関係を結ぶには、サドとマゾという関係の中に、二人の間で共感できる平等な関係が形成されていなければならないはずだ。
見た目は確かにSの迫力が強く、M側はすべてが受け身なので、対等であるわけがないように見える。
確かに対等ではないだろう。しかし、平等ではあるべきなのだ。
対等というのは、見た目に感じられる外的なことであり、平等というのは、倫理に基づいた内面ではないかと、聡美は感じた。だから、平等というのは、それぞれが納得した上での関係でなければいけないはずだ。そうでなければ、一歩間違うと、殺人事件に発展しないとも限らない。
SMプレイの定番として、ムチというものがあるが、Sの人間がMの人間に対して打つムチは、痛くないものらしい。ミミズ腫れのようになったとしても、打たれた瞬間は痛みではなく快感なのだ。
さらに、ろうそくを垂らされると確かに一瞬は身体がビクッとするほどの痛みが走るが、その後は快感が襲ってくるという。
つまり、SMプレイというのは、お互いに一瞬の痛みの痕に来る快楽を求めるものであり、それを知らない人が見て、
「Mの人は痛みを欲しているんだ」
と思い込んでいるとすれば、大きな間違いだ。
セックスの最中に首を絞めても、失神寸前の寸止めが快感になるのであって、素人がすると、快感が襲ってくる前に、絶命してしまうことだってあり得るのだ。
素人がムチを使って苛めたとしても、それはどこまで行っても痛いだけで、快感は永久に求められない。
なぜなら、快感への道を通り過ぎて、気付かないまま地獄の一丁目を通りすぎてしまっているのだ。三途の川も気付かずに、気付いた時には、自分が殺人犯。だから、SMプレイは素人ではできないというのだ。
それは言葉の暴力も同じこと。言葉で詰られることをSMプレイの一環とする人もいるが、言葉こそ、浴びせる方には痛みがまったくないのだから、始末に悪い。
こんな怪しい二人が客としてきていることに、SMをまったく知らない聡美も、何となく気持ち悪く感じていた。
だが、苛められている男の方は、なぜか聡美に興味を持ってしまったようだ。相手の男が、一度、
「何とか面倒みてやってくれないか?」
という先輩の言葉が彼の中で引っかかっているのに違いない。
苛められる苦痛の中に見つけた一輪の花とでもいえばいいのか、彼の聡美を見る目が次第に切羽詰まっているように思えた。だが、聡美は怖いという気持ちはなかった。どちらかというと、哀れみを感じさせる目立ったのだ。
その男は、聡美にとって一番嫌いなタイプの男だった。
「さおりというキャラクターが自分の本性であっても、好きになってないかも知れないな」
と、感じたが、、それが間違いだった。
こんな男を好きになるのが、「さおり」というキャラクターであり、聡美にとって、本当の意味での自分を知ることになるのだった……。
裏表の定義
その男の名前は、江上龍之介と言った。見た目からは想像もできない男らしい名前で、当然名前からは想像もできない本人の性格だった。こんな男のことを、
「女が腐ったような」
という言い方を昔であればしたのだろう。
今だと、女性蔑視と言われて、言葉に出しただけで、非難を受けるかも知れないように思う。
ある日、コンビニのバイト中に、
「さおりちゃん」
と言って声をかけてきた人がいた。
その人の声は渋い声をしていて、聡美の知っている人の中で聴いたことのない声の持ち主が話しかけてきたのだった。
聡美が後ろを振り返ると、その人は余裕の笑みを浮かべていて、何か一瞬ムカついたが、その顔には見覚えはなかった。
それはあくまでも、自分のことを、
「さおりちゃん」
と呼ぶのは、スナックの客しかいないという思いがあってのことだった。
次の瞬間に、自分を知っている人すべてを頭に思い浮かべてみたが、やはり知っている顔ではない。もっとも、次の瞬間で自分を知っているという男性をすべて思い出せるというほど、自分には知り合いが少ないという証拠でもあった。
これほど普段が目立たないと、本当にスナックでの知り合い以外に、会話ができるほどの人は誰もいないということでもあった。