一周の意義
その現場において、争った跡がないというのもその理由の一つであり、やはり、争って傷ついたという話も信憑性がなくなってくる。
そして、さらにそれを裏付けるように、その血液は、被害者の血液と混じらないところに付着していた。かなり離れたところにあったということだ。それは、犯人側が、自分の血液を意図的に残したという証拠でもある。つまり、犯人は自分が誰であるかということを、意図的に知らせようという気持ちがあるのではないかということだった。
どうにも矛盾していた。
ただ、この血液型を調べると、さおりの血液型と同じであった。以前事故に遭って輸血を受けているので、さおりの血液はその時の病院のカルテに残っているのではないかということで、そのカルテを取り寄せることができた。
鑑識によって解析された、現場にあった被害者以外の血液と照合した結果、
「やはり、さおりのものだということになるわけだね。ということは、彼女が犯人であるということは、かなりの確率で、状況証拠が示しているということだ。とにかく、捜査の一番の着眼点は、さおりの行方を捜すことということになるだろうな」
と、捜査本部で、捜査主任が話したことであった。
捜査本部は、いくら捜査のやり方が昔と様変わりしたとはいえ、今でも存続している。何がなんでもすべてを改革というわけではなく、旧態依然と残っているものもある。それは、なければ機能しないものであり、それがないと、捜査そのものが成り立たないというものなのだ。
そんな捜査を行っている時、刑事の一人が注目したのは、早苗の行動と、聡美の立場だった。
これはいみじくも、最初に二人を分けて尋問したことで分かったことだったのかも知れない。
最初こそ、そこまで事件の全貌が分かっていなかったのに、独自の捜査が許される世の中になったことで、ある意味、
「勘に頼る捜査」
というのもありだと思われるようになっていた。
そのこともあり、こともあり、早苗に対しての監視の目と、聡美の事情を勘が見て、、
どこに注目すればいいのかを考えていたのだ。
聡美は、精神的に母親が死んでしまったことで、正直頭の中がドーナツ状態ではないかと思われた。
そもそも、結婚相手の説得ということで田舎に帰ってきて、好きな男のために、説得に当たっていたのに、相手の男が裏を返して。
「もう君とは結婚できない」
と言ってきたことに対し、彼女はどうも、相手の男の後ろに男が絡んでいるように思えたのだ。
「この裏切りは、私の精神的な本質を崩壊させるものだわ」
とまで思わせ、もう、田舎にいる必要はなくなったのに、東京に戻ろうともしなかった。
その一番の理由は、
「あの人がいる東京に戻る勇気はない」
というものだった。
東京には、自分が好きになった男がいて、有頂天になった精神状態の自分がまだ残っているような気がする。自分が有頂天で戻れたのであれば、それでいいのだが、まったく違った状態で戻ることになれば、そこに、まだ有頂天のままの自分がいて、そんな自分に合わないとも限らないという、オカルト的な発想を持っていたりする。
それは一種のドッペルゲンガーのような発想であり、自分と同じ人間が存在していて。その人物に逢ってしまうと、死んでしまうという伝説を信じていたのだ。
しかも、彼女がまるで、自分を裏切ったあの男の新しい彼女であるとすれば、どうなのだろう? その人物がもう一人の自分だと分かるのは、当の聡美だけではないか。
そう、その女は、名前を
「さおり」
と言った。
さおりは言葉巧みに、江上に近づき、まるで最初にスナックで、
「さおり」
という女性と出会った時のことをデジャブのように思い出し、
「人生をやり直せるのではないか」
と思ったのかも知れない。
それが、妹のさおりの作戦だとすれば?
最初から、自分が東京にいた姉にとって代わろうということを考えていたとすれば、何とも恐ろしい発想である。
ただ、まさか姉が自分の名前を源氏名に使っていたなどと思ってもいなかったので、ここまで江上の心を捉えることができるとは思わなかっただろう。
だからと言って、さおりは江上のことを本当に好きになったわけではない。どちらかというと、男としては嫌いなタイプだった。
それでも、自分が逃げるためには一番利用価値があった。
昔読んだ小説の中で、
「一番安全な隠し場所は、一度調べた場所である」
ということだ。
一番聡美にとって、会いたい相手ではあるのは、今は昔、今は一番会いたくない人間になってしまった。
しかも、その事前準備をしていたのも、さおりだった。その含みを持って、姉が母親を説得に向かっている時に、江上に近づき、関係を持った。もちろん、江上もさおりを聡美の妹だなどと思ってもいなかっただろう。欺かれているとも知らず、自分が一番信じなければいけない婚約者を裏切る形になったのだ。
何とも悪魔のような妹のしたたかさである。
つまりは、ここが一番安全な隠れ場所ということになる、さおりは、完全に高校生の頃の素朴な様子から、かなりケバイ状態のオンナに変身している。
「ここにさおりはいるはずだ」
という自信を持って訪れたとしても、見破ることは、一度も逢ったことのない警察には無理であろう。
分かるとすれば、姉の聡美と、早苗くらいであろうが、実は早苗も彼女がここにいるのを分かっている。それどころか、今回の計画に途中から参加もしているので厄介であったのだ。
絶対に分かるはずの聡美であったが、
「江上の顔は二度と見たくない」
と思っている以上。さおりには、この場所は絶対に安全なのだ。
しかも、ここは一時の避難場所であって、計画では海外に逃亡を計画していた。
どこまでうまくいくか分からないが、早苗にしても、その方がありがたかった。計画に参加しているとはいえ、いつまでも、自分の生活の中にいてもらうのは、迷惑だという思いがあったからだ。海外逃亡の話がなければ、さおりに協力などしなかっただろう。
その動機はもちろん、母親が違っているということが原因であったが。実はさらにその奥に、もう一つの深い訳が含まれていたのである。
それも、昔の探偵小説の中にあったことで、それを見た時、自分たちの出生の秘密を、二人は知ることになったのだ。
早苗は、さおりの母親が自分に対して、贔屓があることが分かっていた。しかも、さらに、自分を捨てた母親に対して、嫌悪とも憎悪ともつかない感情が、まるで自分のことのように渦巻いていることを感じていた。
あまり他人には興味を持たない母親が、自分とその境遇に関して、並々ならぬ感情移入があるのだ。
それはまるで自分が生きてきた感情を凝縮しているかのようであり、早苗は最初、それをどのように解釈すればいいのか分からなかった。
ずっと悩んでいるところに、さおりの告白を訊いたのだ。
「どうも、お母さんは本当の母親でえはないと思うのよ」
ということだった。
「その疑念はいつから感じるようになったの?」
と聞くと、
「ずっと前からなんだけどね、輸血を受けて血液型が分かったんだけど、私は母親から生まれるべき血液の持ち主ではなかったのよ」