一周の意義
なぜなら、その時点で冷めた方にもまだ相手に対しての思いは完全に消えているわけではないからだ。傷つきたくないという思いと、一緒にボロボロにまでなりたくないという思いが、別れという苦渋の選択に迫られることになるのであった。
「とにかく、相手には早く気付いてほしい」
という思いだけが相手に対しての態度に出る。
それまで、
「この人が冷淡になった態度など想像したこともない」
という思いと、
「この人ほど自分のことを分かってくれる人はいない」
という思いが交錯し、この関係が永遠に続くと思っていた。
もちろん、途中で小さな波はあるだろう。喧嘩だってあるかも知れないが、あくまでもお互いの気持ちを確かめ合うという意味でのものであり、別れに繋がるものではないと思っていた。
しかし、実際にその時が訪れると、
「この人のこんな顔、想像したこともない。今まで、この人だけが自分のことを分かってくれると思っていたが、急に、この人のこの顔ほど、二度と見たくない顔だと思う」
そんな気持ちになってきたのだ。
そう思えてくると、やっと冷静になれてくる。それまでの自分が錯覚をしていたとは思いたくないが、そう思わないと納得できないという矛盾が残ってしまう。
恋愛が終わる時というのは、何か音が聞こえるのかも知れない。
例えば、身体の骨が折れる時というのは、他の人には決して聞こえないが、錯覚かも知れないと感じるような微妙な折れる音がするという。聡美は今までに何度か骨折をしたことがあったが、その中で一度か二度は骨が折れた時の音を聞いたことがあった。
「ピキッ」
という音がするものだと聞いたことがあったが、確かにそんな音だった。
だから、骨が折れたことを、すぐに自覚したのかも知れない。
この音は、痛みが来るよりも先に感じたものだった。
音があった時というのは、骨が折れたと言っても、それほど大したことのない時だった。音が聞こえなかった時の骨折は、ほとんど、感知までに一か月以上かかり、ひどい時には入院もあった。ギブスにかかっているので、ギブスが外れてからも、リハビリという辛い時期がやってくる。固まってしまった禁肉をほぐさなければいけないのだが、下手をすれば、また骨を折ってしまいそうな感じがするので、その骨が折れた時の痛みが頭の中にあって、リハビリは、そういう意味でも辛いものであったのだ。
失恋だと分かった時にも、骨が折れた時のような音がした。それがいつだったのか、その時は分かっていたが、すぐに分からなくなった。それは自分が失恋したことを受け入れて、自分の中で納得した時だろう。あくまでも、納得した時期であって、辛さが解消された時ではなかった。その二つが同一ではないということは、最初から分かっていたことであり、まわりとも隔絶されたその思いが、自分を納得させる力になったのかも知れない。
そんな失恋をしたことで、自分がどこまで成長できるのか、そのことを考える余裕ができてくれば、失恋の痛手の出口が見えてくるだろう。つまりは、相手中心の考え方から、自分中心の考え方へシフトできるかということが、立ち直りのきっかけではないかと、聡美は考えるようになっていた。
そんなこと考えるようになった矢先、まさか、家の中で殺害された人が発見されるなど、誰が想像したことだろう?
話は一転、殺人事件へと変貌していくのだった。
孤独と孤立?
妹を訊ねて、妹の友達が遊びに来たという話は前述の通りであるが、母屋にいない時は納屋を探すのが恒例であり、誰も他に家にはいなかったこともあって、姉の聡美にことわりを入れて友達が納屋に向かったというところまでは話していた。
納屋の中は、別の居住空間ができていて、さおりはそこで過ごすのが好きだったようだ。
なぜなら、納屋には新旧のどちらも味わうことができるようになっていて、その感覚を一番分かっていないのが、母親だった。
家族のほとんどは、自由が好きで、心に余裕を持っているのだが、どこか遊び心が潜んでいるとことに共感するからであって、母親だけが、そんな環境に馴染めなかった。
いかにも真面目な人で、自分の中で持っているカチッとした感覚に少しでも逆らうということは誰よりも自分が許せないことであり、
「私は、よほどのことがなければ、納屋で過ごすことなどないわ」
と言っていた。
そのよほどのことというと、街の中で何かお祝い事や祭りごとなどがあった時、この納屋を貸し出すことが結構あった。
貸し出すことに関しては父が寛大で、
「どうぞ、家を使ってください」
と、使用料を取ることもなかった。
「街の行政に参加するのは、義務のようなものですからね」
と笑っていたが、母親はそんな父親の自由奔放が嫌いだった。
むしろ憎んでいたと言ってもいいかも知れない。
父親の自由奔放さは、真面目でカチッとしたことでないと我慢できない自分に対しての皮肉であり、挑戦だと思っている母親にとっては、これほど憎らしいことはない。ある意味、自分が自分であることの意義を、家族を仮想敵とみなすことで、自分の正当性を自分で納得することに掛けているようなところがあった。
家族の中で、一人浮いているのが母親だった。
しかし、これもバランスという意味でいえば、母がいることは大切なことだった。
もし、母がいなければ、自由奔放ばかりになり、歯止めが利かなくなっていたことだろう。
ただ、逆に母親がいなければ、家族の誰か一人が母親のようになっていたかも知れないとも思う。
そしてその第一候補は、他ならぬ自分、聡美ではなかったかと最近になって思い始めた。
その理由として、
「自分が母親を敵対視するのは、反発するところがほとんどなのだが、どこか似たところがあり、それを自分で認めたくないから、母親に対して反発するという、スパイラルになっているのではないか?」
と考えるからで、
「似た者同士が反発しあう」
という理屈も成り立つのではないだろうか。
それは母親も分かっていることではないかと思うのだが。だからこそ、ムカつくのかも知れない。
ということは、自分と同じくらいの怒りを母親は自分に持っているということであろう。ただ、程度は同じであっても、派生してくる場所はまったく違っている。育った環境も、年齢もまったく違っているのだから、それは当たり前のことで、娘が不利なのは、母親のように、相手の年齢の頃を知らないというのが不利といえるだろうが、この不利なことが、一番大きな問題を孕んでいるのではないかと思っている。
母娘の確執、そして、父息子の確執はどこにだってあることだ。同性だから分かることもあるのだろう。
分からないことが苛立ちに結び付くこともあれば、分かっていることが苛立ちに結び付くこともある。元は同じなのかも知れないが。一体どのように解釈すればいいのか、分かりそうで分からない。寸でのところで分からなくなるというのは、最初から分かっていないのを同じだ。
むしろ、ひどいことなのかも知れない。