一周の意義
というところばかりである、
式だけをしてもらって、その後、食事会。そして、新郎新婦だけが、そのホテルで初夜を迎えるというのが、一番なのではないかと思うが、どうしてこんなことになっているのだろうか。やはり冠婚葬祭というのは、商品化してしまったということであろうか。
披露宴というと、呼ばれる方も大変である。
「今年はまわりが結婚ばかりするので、出費がかさむ」
という人が多い。
それだけ呼ばれるというのは、社会人としての一種の誇りなのかも知れないが、出費の面では溜まったものではない。
呼ばれればスピーチを頼まれたり、余興を頼まれたりする。しかも、それを頼むのは誰かって? 何と、結婚する主人公である当人たちだった。
何が楽しくて、お金をかけてまでそこまでしなくてはいけないのか、呼ぶ方も呼ばれる方も、あまりいい気はしない。披露宴というものを楽しみにしている人も中にはいるだろうから、あまり気持ちを表に出していうことは控えなければいけないのだろうが、言い始めるととどまるところを知らないというのも事実だった。
本当に世の中の年中行事の中には、
「こんなもの、何が必要なのか?」
というものであったり、
「元々はまったく違った主旨だったものが、ただのお祭りになってしまった」
というものもたくさんあるだろう。
「本当に必要なのか?」
と言われるもので、バレンタインデーや、ホワイトデーなどがある。
好きな人にチョコを挙げる一年で唯一の日というが、本当はキリスト教の中で、ローマ皇帝の迫害下で殺された人を祀る記念日だったのだが、家族や大切な人に贈り物をするという日に変わったというのが本当のところである、日本が日キリスト教ではないということもあって、男性が女性に告白できる唯一の日などという悪しき伝説になったしまったことで、批判、不満も多く、今では少し変わってきているということであった。
ホワイトデーに至っては、チョコを貰った女性がお返しをするという日本で生まれたものだというではないか、しかも、お菓子屋がお菓子を売りたくて強引にこじつけた日というのが一般的になったようだ。ホワイトデーというのを考えた人も、ここまで普及するとは思っていなかったかも知れないという、実にバカバカしい日ではないか。諸説あるようだが、その説のどれもがお菓子屋さんのおん坊というものばかりというところが、バカバカしさを増幅させている。
ただ、商売屋としては、尊敬すべきところで、よく思いついたという経緯を表しておくことも忘れないようにしたいと思うのだ。
話は横道に逸れたが、結婚式というものが、どれほどくだらないものなのかということを誰も言わないのはなぜなのだろう? 自分も祝ってもらいたいという思いが強いからだろうか。
それとも、一生に一度のことだという思いが強いからだろうか。もちろん、結婚するのは何度でも構わないことだとは思うが、二度目はどんな顔をして披露宴をするというのだろう。
結婚というものが一体何なのかということを考えると、親の承諾がいるいらないというのも、どこか違うような気がする。
今はだいぶ変わってきているようだが、昔であれば、男性のところに奥さんが嫁にくるという意味で、家同士の結び付きということになるのだろうが、最近では、家族関係なしで一緒になるカップルも多いことだろう。それを思うと、結婚というものが何を意味するものなのか、疑問に思えてきた。
そこへ持ってきての、妹のさおりの、
「母親に対しての血の繋がりへの疑惑」
という話が出てきたのだ。
特に田舎という土地での出来事に、何となく振り回されてしまいそうに感じた聡美は、これから自分が何を目指していけばいいのか、本当に途方に暮れていた。
まさか、自分から結婚を申し込んできた相手が、親という障害だけで、何も考えずに自分から逃げたのだと思うと、どうにも許せないという気持ちを通り越していたのだった。
そういえば、江上という男、考えてみれば、アブノーマルな性癖の持ち主だったではないか。今では男らしいところが結構あるので信じ込んでいたが、そもそもの性癖を忘れていたことが、聡美にとっては、失敗だったかも知れない。
世間では、
「同性愛者であることを隠蔽するため」
ということでに偽装結婚がよくあるというではないか。
偽装結婚というと、よく聞くのが、入国ビザが切れていたり、ザイルいい資格を得るためのものというイメージが強いが、ドラマなどでよく扱われるのは、同性愛者による偽装結婚というのもあったりするのだ。
ただ、彼はその同性愛から逃れようという気持ちがあったのかも知れないという思いも贔屓目に見れば、見れないこともないが、やはり結婚を考えている相手を見捨てるようなマネは、普通では考えられない。
他のオンナに乗り換えたということであれば、それもありえないことでもなかったが、今の段階では同性愛という思いが頭を大きくもたげていた。
考えてみれば、その方がいいかも知れない。相手が同性愛者という、一種の変態に属する相手であれば、諦めもつくというものだ。
一体自分が何に悩んでいるのかが、今の聡美には分からない。確かに青天の霹靂ではあったが、何がどうなったのか分からないところこそが悩みなのだろう。
「自分があの男に何か嫌われるようなことをしたのか? あるいは、あの男が嫌いなところを私の中に見つけたというのか?」
というあくまでも、悪いのが自分だった場合、、または、
「あの男が同性愛者であったり、私のことを好きだと言っていたことが、実は方便であったり」
という相手が悪い場合がある。
自分が悪い場合は、何としてでも悪いところを見つけ出し、相手を説得しようとするか、今回はしょうがないとして、新しい相手ができた時に失敗しないようにしようと考えるのかであるが、相手が悪い場合は、何も自分が悩む必要はない。
「悪いやつに引っかかった」
というところが唯一、問題なだけで、すべては相手が悪いのだ。
何も自分が悩む必要などまったくない。
今の段階で考えられるのは、聡美の中に悪いところは考えにくいということだ。
ひょっとすると、相手に構いすぎてしまって、相手が億劫に感じるということもあるかも知れないと思ったが、聡美の方からそんなに積極的だったことはない。やはり。相手が心変わりしたのは、聡美に原因があるわけではないとしか思えなかった。
「それなら、こんな田舎にいることはない。さっさと東京に戻ればいい」
と思ったが、今までは、東京というところがどんなところだか分からなかったので、勝手にいい方に想像を巡らし、期待に胸を躍らせていたのが田舎での思いだが、今のように、いつ戻ってもいいと思うと、戻る場所である東京が、実に狭いところに思われて仕方がなかった。
知らなかった時は、どんなに広いものであるか想像もつかないし。自由自在に伸縮するかのような世界にも思えた。ある意味で、東京という場所は、生き物のようなところだと思っていたのだ。
しかし、本当の東京は確かに生き物であった。ただ、それは一人の人間に、どうすることのできないとてつもなく想像を逸脱するかのような場所であった。