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一周の意義

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 そうであった。妹が母親の本当の娘ではないとすれば、自分とも血がつながっていないということを示している。それは、妹と母親の関係を他人事のように見ていた自分とは違う自分が出てくることになる前触れであった。
 そのことを考えると、何となく気になる点もあった。
 母親は自分に対しては必要以上に構うのに、妹に対しては結構自由であった、それは自分は長女だからだということで自分の中で納得はしていたが、もし妹の血がつながっているのだとすれば、聡美自身がここまで母親に対して反抗的な気持ちになるということもなかったような気がする。
 それを親子の間で考えるとすると、やはり自分と妹を見る母からの距離には、親子であればここまで離れていないと思える距離感に気づいていたのではないか?
 その思いが嵩じて、母親への反発となり、家出の原因になったのかも知れない。自分でも無意識のうちに家を出て、家族ではなくなってしまうという状態は、自分のまわりでも結構あり、
「親子だからこそ、他人には分からないわだかまりがある」
 という理屈なのであった。
 聡美は、さおりの考えていることに何と答えればいいのか分からなかった。
――待てよ?
 聡美は、今の状況とはまったく違うことで、自分と妹に血の繋がりのないという意識を、無意識のうちに感じていたのではないかと思うふしがあった。
 それは、
「いくら、家出をした後だと言っても、スナックで勤め始めた時、源氏名に妹の名前を使うなど、普通であればありえない。それよりも、妹の名前を使ってしまったことに対して、まったくの違和感がなかったことが、自分にとって不思議なことであるはずではないか?」
 と感じたが、さらに続いて、
「まわりの人から、さおりちゃんと呼ばれて、まったく違和感がなかったということに、まったく何も感じなかった自分が今から思えば怖い」
 とも感じたのだ。
 普通なら、自分が今まで呼んでいた、
「さおりちゃん」
 という言い方を、まわりから自分に向けてされるのである。
 他人であれば、別に意識することはないだろうが、さおりという名前が血を分けた妹だと思うと、そこに気持ち悪さのようなものがあって、しかるべきではないだろうか。
 それを思うと、聡美にとって、さおりという妹の存在が、離れて暮らすようになって、どんどん薄れていったのではないかと思えるのだった。
 家出をしたのだから、それも当然だと思っていたが、こうやって本人から疑惑を訊かされると、自分の中にも思い当たる部分が見つかるというのは、もし、妹に対して、
「お姉ちゃんはそんなことは思っていない」
 と言っても、分かってしまうのが、姉妹だと言われれば、血がつながっているのではないかとも思えるが、血の繋がりなどなくても、姉妹同様に暮らしてきたのだから、そっちの方が、聡美には重要だった。
「血がつながっていようが、いまいが、別に深く考えることではない」
 と思ってはいるが、それを悩んでいるという妹にぶつけることは絶対にできないと考えた聡美であった。
 どうやら妹も母親との血の繋がりについてというよりも、姉である聡美との血の繋がりについての方が気になっているようで、それはそれで姉としては嬉しいことであった。

              殺されたのは?

 さおりのことを気に掛けていた聡美だったが、何とか、母親に形ばかりでも認めさせればそれでよかった。
 何も、心から祝福してほしいなどと思っているわけではない。ウソでもいいから、
「結婚おめでとう」
 と言ってくれればいい。
 聡美が納得できなくても、江上と江上家の人々が納得してくれればそれでいいのだ。
 江上家を騙すようで気が引けるが、これも一種の、「嘘も方便」というべきであろうか。そもそも結婚に
「親の承諾が必要だ」
 であったり、あるいは、
「結婚とは家同士の結び付きだ」
 などという、旧態依然とした考え方に誰も異議を唱えないのはどうしてなのだろう。
 そもそも、結婚という儀式に金をかけすぎるということに、誰も何も言わないのはどうしてなのだろう?
 結婚するのに、なるほど、結婚式は必要かも知れない。それはあくまでも、洋式、和式どちらでもいいが、洋式であれば、教会に行って神父さんに、結婚の儀を取り行ってもらえばそれで終わりではないか。
「家族は?」
 と言われるのであれば、別にどこかのホテルのレストランでも団体予約をして、そこで二時間くらいの食事会にでもすれば、簡単に終わる。
 そもそも、披露宴というのも、聡美はバカバカしいと思っている。
 何と言っても、一番バカなかしいと思うのは、客のバランスを取るということであった。
 新郎か、新譜のどちらかが友達がほとんどいないとか、家族が少ないなどの理由で、参加者が十人足らずの場合もあるだろう、その反対に。相手の客は、百人近いなどというと、あまりにもつり合いが取れない。場合によっては、
「披露宴でのサクラ」
 ということで、そういう商売もあるという話を訊いたことがあった。
 聡美としては、
「別に、相手が百人呼びたいなら百人でいいし、こちらだって、十人しかいないなら、十人でいいんじゃないか?」
 と思うのだが、
「そうはいかない。結婚式のバランスが崩れる」
 と言って、ほぼ皆反対するだろう。
 じゃあ、結婚式のバランスって一体何なのか? 確かに、結婚式と披露宴を合わせて。皆は結婚式と総称していうようであるが、本当の結婚式は披露宴などは別であり、披露宴というのは、読んで字のごとし、まわりに披露するためのものだ。別に絶対に必要というわけでもない。
 しかも、披露宴ともなると、一種のお祭りである。しかもストーリーはテンプレート化されていて、いくつかのパターンから大筋を選び、オプションで何をつけるかで、規模も決まってくる。有名人の披露宴ともなると、披露宴だけで、数百万ということだ。
「人生に一度の晴れ舞台」
 と言われるが、聡美にはどうしてもそうは思えない。
 これが、自分が仕事にしていることや目指していることの結果としての、賞の受賞パーティということであれば、
「一生に何度もない晴れ舞台」
 と言えるだろう。
 自分の努力が実ったことなので、祝ってもらうことに何ら違和感はない。しかし、結婚というのは、極端な話、皆することであって、自分だけが特別でもない。それなのに、いかにも人生の成功者でもあるかのようにおだてられたかのような大舞台に担ぎ上げられ、自分が偉くなったかのような状況になってしまうことを、聡美は恥ずかしいとすら思うのであって、
「何が、人生に一度の晴れ舞台なのか?」
 と、バカバカしさしかないのだ。
 しかも、授賞式であれば、賞の主催者が金銭面も主導権も握ってくれている。それなのに、結婚式というのは、自分たちでお金を出して、自分たちで演出をする。これを茶番と言わずに何という。
「別に結婚式だけで、披露宴なんかいらないや:
 ということになると、いざ結婚となった時、結婚式だけができるところというのは限られてしまっているようだ。
「うちは、結婚式と披露宴がセットになっているので」
 であったり、
「さらに、新婚旅行までがパックなんですよ」
作品名:一周の意義 作家名:森本晃次