キツネの真実
「紗友里は、どうしてそんなに真面目なのかしらね?」
と学生時代の友達から言われたことがあった。
真面目という言葉を言われて、素直にそれをいいことだと思えるような性格であればそれに越したことはないのだろうが、どうも疑心暗鬼那ところがある。そのくせ、真面目という言葉が褒め言葉であってほしいという思いが強いことで、ジレンマに陥っているのも事実だった。
それほど、今までに紗友里がまわりから言われたことで、一切の褒め言葉がなかったという証拠でもあるのだろう。
もっとも、言葉というのは、言われたその人がどのように感じるかによって、まったく違った形の結論が出てしまうことがあることから、どこまで信じていいものなのか分からないという思いも実際にはあった。
紗友里がホステスとしてアルバイトをしていたのは、そんな自分を発見したいという思いもあったからだ。
確かに就職がまともにできず。ホステスになったという経緯はあったが、別にホステスを嫌だったわけではない。中にはどうしても受け入れられないようなひどい客もいるが、概ねいい人ばかりである。
そんな人たちとの会話が楽しくて、たまにであるが、
「ホステスやっていて、よかった」
と感じることもあった。
何しろ、相手は一緒にいるだけで喜んでくれるのである。普通の社会であれば、何の能力もなければ、排除されるだけであるが、一緒にいるだけで喜んでもらえれば、それこそ存在価値を見出せるというものだ。
会社で仕事ができたとしても、それは、
「できて当たり前」
という条件の下だからである、
できても褒められない世界がいいのか、一緒にいるだけで、相手の存在感の中にいることができることを感じられることで、紗友里は満足できるものだと感じていたのだった。
そんな紗友里の本質を見抜いたのが先代だった。先代は、何度かこの店に通ってきてくれたが、紗友里が嫁に来てくれてから半年くらい経ってから言っていたのは、
「今だからいうんだけど、あのお店に通っていたのは、最初から紗友里ちゃんが目当てだったからなんだよ。初めて見た時、実は私は息子と一緒にいるところを想像してみたんだ。そうすると、想像ができなかった。まるで違う世界に住んでいるかのように見えたからね。他のホステスとであれば、想像がつくんだ。確かに仲睦まじい光景が見えるんだけど、それはホステスとしての彼女と息子とを見比べるからなんだ。つまり、ホステスと違う顔の本性は、きっとまったく違ったものであるはずなので、ホステスの女性を見て、息子との仲睦まじさを感じるとすれば、それはもはや願望であり、見失ってしまってはいけない感情を露骨に感じることになると思うんだ」
と先代は言った。
「じゃあ、私は違ったということね?」
と紗友里がきくと、
「ああ、普通であれば、想像は簡単にできると思うんだけど、紗友里ちゃんの場合は、目の前にいる紗友里ちゃんとの想像はできたんだ。だけど、真面目だと思っている紗友里ちゃんと息子を並べると、同じ次元に押し込めようとしている自分の感覚が、それは間違っていると言わんばかりに、違った想像に誘っているようで、結局、妄想の中の同じ次元では存在しえないということが分かった。だから、余計に二人を引き合わせたいという思いに駆られたんだよ」
と言っていた。
「だから、何回か来てくれた後で、息子さんをお店に連れてきたのね?」
「ああ、気分転換だと言ってね。だから、息子は私が紗友里ちゃんを気に入っているということを知る由もない。もし知っていたとすれば、それはまさか自分の嫁探しだとは思わずに、私の後添いを探しているのだと思うじゃないだろうか? 私の家内は、すでに亡くなっていたので、息子がそう感じるのも無理もないことなのだが、実は正直にいうと、私自身、君のことを私の嫁にと考えたこともあったんだ。これは息子の嫁にと考えた最初の頃だったかな? 年甲斐もなく、息子に嫉妬したのかも知れない。それほど君は素敵な女性なのだということなんだよ」
と、先代は紗友里をべた褒めしていた。
「そうだったんですね……」
と、その時は素直に先代の言葉が嬉しかった。
だが、今から考えると、先代のその言葉があったから、今の自分が旦那に対して肉体的だけではない、精神的なものまで心が離れて行っているのではないかと思うようになったのではないだろうか。
紗友里は自分でいうのもなんであるが、
「自分がもし、男だったら、好きになるタイプなのではないか」
と思ったほどであった。
自惚れと言われればそれまでだが、いつもネガティブな発想しかできないような紗友里には、それくらいがちょうどいいのかも知れない。
絵画教室に通いたいと言った時、旦那は別にそれに対しての反応はなかったが、先代は微妙な態度を示した。
目がギラりと光ったかと思うと、次の瞬間、戸惑いのようなものを感じた。
何に戸惑っているのか分からなかったが、先代には先代の思いがあるのだろうという他人事のような考えをすると、さらに先代の目が怪しく光った。
それは咎めるような目ではないと思ったが、諫めているように思えなくもない。
「思いとどまってほしい」
という意味に感じられ、別にサブカルチャーくらいに何を感じるというのかというほど、不可思議な態度に感じた。
そもそも、
「気分転換にはサブカルチャーをするのが一番だよ」
と言っていたのは先代である。
先代も実際にサブカルチャーとして俳句の会に入っていた。
「同じような年代の人が多いから、それなりに楽しんでいる」
という話であった。
俳句の会というのは、紗友里と違って、地元の行政がやっているもので、市の文化センターの教室を借り切っての、週に二回のサークルだという。奥さんを十年前に亡くされてから、最初は途方に暮れていて、社長業も疎かになった時代があったというが、当時の専務がやり手で、何とかスーパーを盛り立てたが、一歩間違えれば、従業員皆が路頭に迷い、金沢家皆がどうすればいいのか、途方に暮れていたことであろう。
そんな時、俳句と出会ったのは、実にタイムリーだったと、本人が言っていた。先代の亡くなった奥さんと、旅行などに行った時、よく奥さんが俳句を詠んでいたという。
「今から思えば、辞世の句でも詠んでいるつもりだったのではないかと思うくらいさ」
と言って笑っていたが、それは今からなら笑えることで、その時の先代の憔悴したイメージを想像もできないので、複雑な思いを抱いたのだ。
俳句と絵画ではまったく違うカルチャ―であるが、芸術という意味では同じだと思っている。
紗友里の中で、感じる芸術というのは、
「制限の厳しいものだが、新しい発想を誰にも邪魔することも、悪くいう権利を持っていないことも分かる気持ちからくるものだ」
と言っていた。
さらに芸術というものには、それぞれのいい点も悪い点もあるが、共通点もあると思っている。その共通点として最初に思い浮かぶものとしては、
「必要なものと、不要なものに分けることができる」
というものであった。