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キツネの真実

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 と言ってくれたのも、紗友里には少しカチンときたことであった。
――お金のことを言い出すなんて――
 と、少し旦那の言動に敏感になっているところに金銭を口にされてしまうと、やはり自分のことよりも、金銭感覚を優先して見てしまうのだろうと感じ。少しショックを隠せない紗友里だった。
 だが、サブカルチャーのパンフレットを見ているだけでも楽しい気分になっていることに、紗友里は満足していた。今までに感じたことのないドキドキがあるのと、見ているだけで楽しくなっているというシチュエーション自体に、まるで子供に戻ったかのような感覚があることに自分でも驚いていたのだ。
 紗友里にとってのサブカルチャーの一番の目的は気分転換である。もちろん、浮気相手を見つけたいというのは欲望であり、妄想である。それを第一の目標にしてしまうことを、紗友里は拒んだ。
 そんなところが、先代が彼女を気に入ったところなのだろうが、本人はそこまでは気付いていないようだ。
 どこか、真面目なところがあるというのも、可愛げがある証拠ではないかと思っていた先代だったのは、他のホステスに感じたあざとさと、彼女のあどけなさに、決定的な違いを感じたからだった。
 あざとさというのは、必要以上な身体への密着と、昭和でいわれるところの、
「ぶりっこ」
 なる態度である。
 先代なら、ぶりっ子と言っても分かるだろうが、今の人に分かるはずもない。今のあざとさとは次元が違っているのだろうが、
「あざとさってどういうことだい?」
 と聞かれたとして、どちらも知っている人は、ぶりっ子と答える人も少なくはないだろう。要するに、
「計算つくされた態度」
 という意味では、あざとさの方が全般的なのだろう。
「ぶりっ子」
 というと、どうしても、可愛さだけを前面に出しているようで、そういう意味で、あざとさは、可愛さよりも、妖艶さの方を強く感じるのかも知れない。
 ぶりっ子は分かりやすいが、あざとさの分かりやすさとは違って、
「許せる許せない」
 という境界であるのに対して、あざとさは、
「騙されてみようか、騙されたふりだけにしようか?」
 というような感覚で、許容したうえで、自分の態度をそうするか考えようとするのではないかと思う。
 つまりは、相手のあざとさを分かったうえで、こちらも行動するところまで含めて、女性のあざとさは有効なのではないかと思う。そう感じたのは、紗友里であり、男性であれば、また別の考えもあるだろうし、自分以外の女性も同じ考えだとは、紗友里には思えなかった。
 そういう意味で、紗友里はあざとい態度が嫌いであり、何よりも、
「私にはできない」
 と思っていたのだ。
 紗友里の真面目さというのは、普通にいう真面目さとは違い、
「自分にできることを制限する」
 という考え方であった。
 いわゆる真面目さというのは、何か正しいことを自分の中での正義とし、その通りに動くことを真面目というのではないかと思っていた。
 だから、紗友里は自分の行動にいつも制限を掛けていて、本当が知っていることも、悪いことであれば、知らないふりをわざとしてしまうというところがあった。
 制限というのは、基本的に、
「欲望を抑える」
 という考え方であり、抑えられた欲望は、自分の中で、
「悪いことだから、押さえつけた」
 という理屈で理解され、記憶の中に封印されることであろう。
 理解された感覚の一部は意識へと向かい、潜在意識として確立されることで、勧善懲悪に近い形の考えに近づいていくのであった。
 紗友里は、サブカルチャーをパンフレットだけを読んでいても埒があかないと思い。実際に見学させてもらいに行くことにした。
 紗友里の中では、
「見学にいって、外から見た時点で、これは真面目過ぎると感じるようなところは、自分には合わないと思った。どちらかというと気軽にできるところでなければ、自分の真面目さが目立たないのではないかという考えがあるからで、これこし、いわゆる、
「あざとさ」
 というものではないかと思えた。
 真面目過ぎるくらいの紗友里が、他の人とうまくできるとすれば、似たような人ばかりではないところの方が却っていいと思ったのだ。
「きっと、似たような人ばかりだと、お互いに見たくないものを見せつけられるような気がする」
 という思いからであった。
 絵画教室というのは、思っていたよりも結構あった。確かに多いと言えば、カラオケなどの和気あいあいとした合唱グループのようなサークルであったり、スポーツ系のサークル。さらにはパソコン教師と言ったものが王道ではないだろうか。英会話などの爆発的に多い教室は、もはやサブカルチャーと呼ぶことのできない、いわゆる「メインカルチャー」と言ってもいいだろう。
 生活や仕事に直結することは、メインカルチャーと言ってもいいということであれば、パソコン教室もメインに入れてもいいかも知れない。運動系でも、ゴルフなどは、メインに入るのではないだろうか。
 サブカルチャーというのはあくまでも、趣味の世界であり、実用的なものとは違うという認識でいいと思うのであった。
 紗友里の場合は、最初から絵画教室という目的をもって探していたので、他の教室の案内は、あまりハッキリとは読んでいなかったが、それでも興味を感じた趣味もいくつかあり、
「絵が慣れてくれば、そっちにも食指を伸ばしてみたいな」
 と感じた。
 だが、せっかくサブカルチャーを目指すのであれば、趣味の世界でも真面目に取り組み、その道を究められるくらいになればいいと思った。
 それはプロになりたいという意味ではない。プロになると、自分の好きなようにはできないという思いがあるからだ、何と言っても、これは気分転換である。好きなことを思うようにできないジレンマなど、味わう価値もないと思うのだった。
 サブカルチャーに費やす時間は、別に紗友里が満足するのであれば、いくらでもいいということであったが、さすがに、帰りが日を跨ぐなどというのは、飲み会でもなければ許さないということであった。それまでであれば、仲間内で、
「ちょっと帰りにコーヒーでも」
 ということもあるかも知れないので、それくらいは許容範囲だということであった。
 実に寛容な設定であったが、逆にいえば、その条件を少しでも破れば、容赦はしないということの表れではないかとも思えた。
 何事も最悪なことから考えてしまう、いわゆる、
「ネガティブ思考」
 であったり、
「マイナス思考」
 と言われる方にばかり考えてしまうくせがある紗友里は、いい意味では用心深い、
「石橋を叩いて渡る」
 という性格なのだろうが、そのせいで、せっかくの好機を逃がしてしまうという反面も持っていた。
 そういう意味で、
「紗友里は、決して出世できないタイプだから、真面目な性格をそのまま維持していた方がいいわよ」
 と学生時代の同級生から、よく言われていた。
 そういえば、今までの人生の中で、確かにおいしい思いをしたことはなかった。そもそも、何が美味しい思いなのかということが分かっていない、その立場になれば、分かることだと思っていたが、今のところそんな立場に立ったことがないということなのだろう。
作品名:キツネの真実 作家名:森本晃次