キツネの真実
孤独や寂しさというものが気持ちの中にあるのも、その精神疾患から来るものだと思いながらも、倫理に反するというジレンマを感じながら、不倫という快感に塗れている。
だが、果たして、不倫というのは、そんなにも人間を狂わせるほどの快感なのであろうか?
実際に不倫をしたのは、その人が好きだったわけではない。肉体的に満たされればいいというだけの軽い気持ちだった。
いや、最初は軽い気持ちだったが、今から思うと、本当に軽い気持ちだったのかというのを思い知らされるような気がした。
不倫をしている時、なるべく視野を狭くしていたような気がする。
本当であれば、細心の注意を図り、まわりを絶えず確認しながら行うべきなのだろうが、もちろん、計画には余念はなかったが、最低限のことしか考えていなかったことは認めよう。
もっとまわりに気を遣わなければいけなかったのは分かっているが、心のどこかで、
「バレルならバレてもいい」
という思いがあったのかも知れない。
結婚してからというもの、一体どこに幸せがあったというのか、新婚の時にあれだけイチャイチャしていて、まわりが羨むほどだったのは、まわりに見せつけることで、結婚したという気持ちを高めようとしていたのだろう。
そんなことでもしなければ、確認できないような結婚生活など、最初から、
「絵に描いた餅」
同様だったのかも知れない。
紗友里は自分が何か勘違いをしていたような気がしていた。最初、自分がこの家にくるまでは、
「私ほど不幸な人間はいない」
と思い、不幸であるからこそ、、何をやっても構わないとすら感じたほどだった。
不幸を作り出したのは、世間であり、その世間の代表が、富豪と呼ばれる人たちがいることで、自分たちのような世間から押し出されたような人間は、不幸を持って生まれて、抗うことのできないものだと思っていたのだ。
しかし、それは間違いだったようだ。
確かに人間は生れながらに平等ではない。富豪の家に生まれた人間、貧困にあえいでいて、その日の食事にも困るような家庭に生まれた人間、そんな人間は、生まれてきてはいけないという思いが心の奥底にあり、親から、
「あんたさえいなければ」
という言葉を、限りないほどに聞かされて育った人もいるだろう。
言葉の意味も分からないまま、ただ、その言葉が自分を呪縛しているのだということだけは分かる。それが本能というものであり、生まれてきたことを、親が悔やんでいるよりも、次第に強く感じることになる。
何しろ自分のことであり、生まれてきたことがなぜ悪いのかを考えるうえで、すでに、その言葉を真偽を考えるという過程をかっ飛ばしてしまっているのだ。そうなると、今度は自分を否定することになり、生まれてきたことが悪いことだということが、すべての前提で、物事を考えるようになる。
そうなると、すべてがネガティブに始まってしまう。つまり、善悪の判断という過程が欠落することになってしまう。
今回の不倫も、まわりからの、
「不倫は悪いことだ」
という意見を、ただ、
「悪いことだ」
と感じることで、何がどうして悪いのかということを考えない。
そもそも、人からモノを奪うということを悪いという発想自体がない。
「取られる方が悪いんだ」
ということになる。
発想の原点は、弱肉強食、強ければ正義、齢から負けるのであって、それが悪という形で認識されるというのが、紗友里の考えだった。
もちろん、同じ考えを持った人もかなりたくさんいるだろうと思うが、それでも、ほとんどの人は善悪の葛藤の中から、弱肉強食を選んだのであって、そもそもそれが悪だということを誰が決めたのか。
それはただの倫理としての考えに基づくものであり、紗友里のように、身体と気持ちを切り離し、あくまでも身体だけの関係であれば、本当に旦那を裏切ったことになるというのだろうか?
「倫理という考え自体、それが正しいということを果たして誰が決めたのだろうか?」
とも考えられる。
紗友里は今回の旅行で、絵を描く楽しみを思い出していた、
「そうだわ。これが本当の私の姿なんだわ」
ということを感じた一番の理由は、絵を描いている間の時間が実に早く流れたからである。
まるで次元の違う世界にいるようで、完全に開放されたせかいで、そこは誰にも犯すことのできない世界。自分にすら犯すことのできない聖域だと言えるのではないだろうか。だから、幻想を見たりして、初めて見るはずのものを、以前にも見たかのように感じるのだ。ただ、それを、
「幻想」
という言葉だけで片づけてもいいものなのかどうか、絵を描きながら考えていた。
そんな時現れた真由美という妹と話をしているうちに、自分の過去が次第によみがえってくるかのように思えた。
そこへの先代のカミングアウトと言えるほどの真実の告白だった。それは紗友里にとって別の意味での衝撃であり、告白された内容に、それほどの驚きがあったわけではない。ただ何を感じたのかというと、
「この世で起こることには、何かそれなりに意味があることなのだ」
ということであった。
それは、事実が真実と呼ばれるものに近づいていくからではないかと思えた。世の中には真実がすべて事実だとは限らないし、事実がすべて真実でもないだろう。そうなるとどこかの場面で、必ず、それぞれは近づこうとするに違いない。
「そもそも、不幸って何なんだろうか?」
と、紗友里は考える。
今までの自分が不幸だったのだろうか? キチンと両親が揃っていて、学校も出してくれた。何か不満があるとすれば、それはすべて自分の中から出るもので、それが尾を引くことはなかった。
性格的に、あまり細かいことにこだわる方ではなかったので、その時々で感じた不満は自分の中でそれぞれに解決してきた。
もっとも、それが最善だったのかは分からないが、もし悪いことであったとしても、そのことに最後は気付くことができて、次の問題の解決には使わなかっただろう。
そのおかげもあるのか、紗友里の人生は、
「輪切りの人生」
だったような気がする。
その時々で節目節目があっただろうが、都合の悪いことも、そうでもないことも、すべてがリセットされた人生だったと思っている。
したがって、過去のことはほぼ忘れてしまっていて、記憶にないことが多い。だが、何かあると、思い出してしまうのは、それを夢に見たことを思い出すというような感覚に陥るからだ、
それを自分では、デジャブのようなものだと思っていた。つまりは、
「初めて見るはずなのに、どこかで見たような気がする:
というのは、
「本当は初めて見るものではないはずのことだ」
ということである。
紗友里はそのことを分かっているつもりだが、認めたくはなかった。なぜなら、デジャブのような感覚で過去を思い出す時というのは、あまりいいことでなかったという思いが大きかったからだ。
だが、今までにそれがひどかったということはなかった。何かが起こっても、それは、悪いことではありながら、最悪のことではない。すぐに立ち直れることが多い。