キツネの真実
高速道路を降りるまでは結構早かっただけに、気持ちはすでに病院についているくらいだった。
しかしそこからの渋滞は、紗友里にとって、嫌な時間となってしまうことになるだろう。
表の車の多さを見ているつもりで、紗友里の頭の中では違ったイメージが頭に浮かんでいた。
表に見えるはずである光景とは違うものが目の前に広がっていた。それは、夕日が沈む公園で、その公園では、皆母親が迎えに来てくれていて、自分一人だけが残っていた。
紗友里は、その時男の子になっていた。いや、実際には女の子だったのに、男の子とずっと一緒に遊んでいるうちに、公園にいる間は自分が男の子だと感じるようになっていたのだ。
自分を母親が迎えに来ない。よく考えてみれば、自分に母親がいた記憶はなかった。一人誰も迎えにくることもなく、日が沈みかけて、まわりが薄暗くなったタイミングで一人家に帰る毎日だった。
だが、家って一体どこだったんだろう? 帰り着く家を想像することはできなかった。そう思うと、自分はすでに大人になっていたことを思い出し、そのことに気づいた瞬間、目が覚めた。
「夢だったんだ?」
と思う。
今まで見た夢は、そのほとんどは目が覚めるにしたがって忘れていくのだが、その夢はやたらにリアルで、忘れることができなかった。
自分は大人になっていて、大学を卒業してすぐだった。目が覚めた自分が紗友里ではないことは、夢の中で男の子だったことが証明していた。
その時、夢の主は、
「これは誰かの夢の中に、俺が入り込んでしまったということなのか?」
と感じた。
子供の頃の記憶にはないものだったからだ。
それに、気になるのが、夢から覚めたにも関わらず、夢の内容を覚えていることだった。よほど怖い夢でもなければ、こんなに夢を覚えていることなどないというのが自分の中で常識になっていたのに、そう感じてしまうというのは、なぜなのだろうか?
「誰かの夢に入り込んでしまった」
というような話を小説家何かで読んだことがあったような気がした。
人の夢に入り込んでしまって、抜けられなくなったという話だったような気がしたが、夢の世界から抜けるには一つしか方法がないというのだ。
「それは、誰か自分の代わりにこの夢の中に入り込んできて、その人よりも先に自分が抜けてしまわなければ、抜けることができない」
というものであった。
だが、チャンスは一度キリ、もし、誘い込んだ相手よりも先に夢から脱出しなければ、もう自分がその夢から抜けることはできなくなってしまうのであった。
一つの夢から抜けられないということがどういうことなのかというのを考えてみた。
「それは、毎日を繰り返している人間と同じ感覚ではないだろうか?」
もちろん、同じ日をずっと繰り返している人などいないとは思うが、夢から抜けられないというよりも、同じ人を繰り返すという方が想像がつきやすかった。
午後十二時を過ぎると、気が付けば朝になっている。そして目が覚めると、そこから先は前の日に見たものと同じ記憶である。自分だけが分かっていて、理解している状態なので、もし何か間違いを起こした場合は、前もって分かっているので、回避する行動をとるだろう。
そうなると、微妙にその日の結末は変わってしまう。変えた途中から違う世界が開けるからだ。
それなのに、また午後十二時を回ると、また目が覚めるところから、同じ日を繰り返すことになる。
しかし、今度は違うところで自分は間違えてしまう。まったく同じ日を繰り返しているはずなのに、どこで狂っているのか分からない。一回前の時に、自分で過ちに気づいたということは覚えているのだが、それがどこで、どのように変わったのかというのは意識できないのだ。変わったという意識だけがあるので、おかしな気分であった。
そして、今回もまた間違いに気づきそこを治し、また微妙に狂ってしまった翌日を繰り返すことになる。
「いつになったら、次の日に行けるというのだ?」
と考えるが、そのうちに、
「別に明日になる必要はないんじゃないか?」
と思うようになっていた。
毎日同じ日を繰り返せば、年を取ることもないし、死ぬこともない。それに分かっていることなので、別に毎回選択をする必要もない。つまり、余計なことを考える必要もないということだ。
だが、
「それじゃあ。生きがいも何もなくて、生きている価値がないと感じないのか?」
と思ったが、確かに最初は生きがいもなく、同じところをずっと繰り返しているのは、死ぬこともできず、自分だけが生き残って、どうなるものだというのかと感じたが、そもそも、生きがいなんて感じなければいいだけではないかと思うようになった。
「どうせ、人生なるようにしかならない」
つまりは、自分がいくら努力しても、自分の思い通りの世界になんかならないんだ。それに自分が思う、
「思い通りの世界」
というのがどういうものなのか、分かりもしないのに、勝手にその思いを求めるのは、自分にとって傲慢ではないかと思うのだった。
紗友里は、その考えが自分のものではないことは分かっていた。誰かが自分の中に乗り移ったのか、自分の意識が勝手に誰かの中に入り込んだのか。それが夢の効果だったのではないかと感じた。
本当はこの考えが誰のものなのか、紗友里には分かった気がした。分かっていながら、認めたくないと思っているのは、この考えが旦那のものだと思ったからだ。
旦那は、来る者は拒まない性格であった。
だから、浮気にしても、相手に望まれたので仕方のないことだとでも思っているのかも知れない。だから、旦那が浮気をしているという感覚はあるのに、その確証が、旦那を見ている限り見えてこないのだ。つまりは、旦那の存在が平面に見えて、その向こうにあるものは、旦那の世界ではないと感じるからだった。
とにかく、旦那というのは、存在が薄かった。
「彼の心の中に入り込まない限り、何を考えているかということも分からない気がする」
と感じた。
だが、彼はただ存在が薄いだけではなく、芸術的な何かに造詣が深い気がした。それが何なのか、紗友里には分からなかったのだ。
先代が俳句に造詣が深いのだから、子供も、芸術的なところに造詣が深いのかも知れない。
存在の薄さが役立つ芸術というと、役者であった。役者であれば、役になり切るわけなので、存在を薄くすることくらいは朝飯前だろう。そもそもの性格が存在のように薄いものであれば、自分で自分を見る時、限りなく無に近いものになろうとも、完全の無にはなれないことを証明しているかのようだった。
「そういえば、役者を目指したことがあったっけ?」
この記憶がどこから来るものか分からなかった。紗友里の記憶の中には役者を目指すということはなかったはずだ。ただ、
「私は目立たない性格のまま、日陰として生きていく方が楽なんだわ」
と、ずっと感じてきたはずだった。
だから、役者を目指すなどありえなかったはずである。
ただ役者を目指そうと思ったのは、別に俳優として売れたいという意識からではなかった。