キツネの真実
まず最初は、バランスを考えるところから入るのだが、実はそこが一番難しい気がした。絵を描くというのは、一番最初にバランスを考え、どこから描き始めるかによって、決まってくる。そのために、ここはゆっくり時間を掛ければいいのだが、変に時間をかけすぎても、迷うばかりで、結論が出にくい。そんな時は、どこで開き直るか、いや妥協するかというのも大切なことで、この場合の妥協という言葉は、決して悪い言葉ではないような気がしたのだ。
描き始める場所が決まって、少しだけ描き始めたという実感がわいてくると、ケイタイのアラームが鳴った、ちょうどその時間は、自分が決めておいた昼食の時間を知らせるものであり、実際に時間を確認すると、すでに、一時前くらいだった。宿に昼食はないので、近くで食べなければいけなかったが、この近くに日本料理屋があって、そこで食べれると思っていた。
時間をわざとずらしたのは、なるべく少ないところでの食事にしたかったからだ。観光客や温泉旅行に来ている人たちでいっぱいになると、さぞやうるさいということは想像の範囲内だったからだ。
それに普段は食べない朝食を食べているので、それほどお腹が減らないのも分かっていた。一時に一度撤収して、それから店に赴くとすれば、一時半少し前になるので、ちょうどいいという計算であった。
昼食などで、それほど、がっつりと食べる思いはない。メインは何と言っても温泉宿の夕食だからだ。ここでたくさん食べてしまうとせっかくの夕飯が中途半端になってしまうことを恐れていた。
昼食には、うどんと、いなりずしにした、
やはり、滝をテーマに描きながら、その場所にキツネ伝説があると聞くと、敬意を表する意味で、お稲荷さんを食するのは、礼儀のように思えた、
しかも、この店のお稲荷さんは絶品で、自分一人で食べるのがもったいないくらいだった。
だが、基本的に食事はいつも一人がいいと思っている紗友里がまさかそんなことを思うなど、自分でも思っていなかったことだった。
この温泉宿にきてから、どこか開放的な気持ちになっているのは確かなことだろう。逆にいえば、それだけ今までの毎日が、決まった行動であり、面白いという感情を押し殺していたということではないだろうか。
まだまだ若いという証明でもあり、それを自覚するためというのが、自分でも思っていなかった本当の旅の目的だったのかも知れない。
キツネの正体
昼の時間は、午前中よりも、少し長く感じたが、それは、前半が自分で感じていたよりもあっという間に過ぎたことで、自分の中で、時間に対しての感覚がマヒしているのを感じたからだろう。
そしてもう一つは、
「時間を無為に過ごしているようで、それがもったいないと思った」
と感じたからかも知れない。
結局一日を通して感じた時間というのは、
「思ったよりも、想像通りに落ち着いたかも知れないな」
という思いであった。
そういう意味もあってか、一日目としては、想像していたのと同じくらいの出来上がりになったが、紗友里としては、満足のいく結果ではなかった。
本当は想像していたよりも、もう少しできていてよかったと思っている。いつも何かを計画した時、その時間配分を最初に計算するのだが、最初は平均的なレベルに比べると、少しサバを読んで計画するつもりでいた。
だから今回も、もう少し早く進むつもりでいたのに、計画通りということは、
「不満はないが、何となくモヤモヤしたものを感じる」
というすべてが中途半端な気持ちにさせられるのだった。
それを思うと、この滝に何か、描いている時に、ふと考えさせられるものがあるような気がした。
要するに気が散っているという感覚である。
何に対して気が散っているのか自分でも分からない。だが、滝をじっと見ていると、何かそこに吸い込まれていくように感じるのは事実だった。
確かに風が強いことで、描くことが容易ではないことは分かっている。だからと言って、時間が押してくるほど、描けないというわけでもない。何と言っても描いている自分が一番よく分かっているからだ。
書いているうちに、この間感じた、自分の中での絵に対する感覚を思い出してきた。
「そうだ、省略できるところが大胆に省略するんだった」
と思いながら、絵を描いていた。
描きながら省略できる部分を考えると、その場所というのが、滝の横の地面に生えている雑草のようなものが風に揺れていたが、滝に近い部分は別にして、自分の方向から見て、延長線上に滝があるその雑草は邪魔な気がした。
「雑草は横にあればそれでいいのであって、滝を隠すものではないんだわ」
と感じたのだ。
そう思って描いていると、その先には何もなく、ただ滝が勢いを増してくるような気がして、絵を見ただけでも、轟音が分かりそうな絵に仕上げたいと感じたほどだった。
だが、それは実際には無理であり、逆に絵の中だけは静寂であるという思いを抱かせるという意味で、隣にある祠は必要不可欠なものだっただろう。
絵を描いているうちに、初めてこの祠の存在価値を見出すことができた気がした。
「この祠の存在で、滝を絵の中心に持ってくるのではなく、祠の存在がバランスを取ることで、ここがダイナミックさを求める壮大な場所ではなく、バランスを保つことで、森にある木々の一つ一つの存在が、意味を成している」
という気がした。
だからこそ、先ほど大胆な気持ちで、思い切って、滝を延長線上に見る場所の雑草を、省略できたのかも知れないと感じたのだ。
ゆっくりと前を見て、鉛筆を立てるようにして、遠近感とバランスを計りながら描いていた。
絵画サークルでは、そのように教えられたのだが、実際には自分流に描くのが今までの紗友里だったが、こうやってスペクタクルな大自然を前にしていると、それこそ自然と絵の基本ができているのだろう。
案外と芸術を前にした時というのは、下手に余計なことを考えない方がいいのかも知れない。
そんな風に考えた紗友里は、どんどんと絵の世界に入り込んでいるようで、その気持ちが、意識の中で、絵というものが時間のバランスをも保たせる力を持っているのではないかと感じたのだ。
絵に限らず、芸術というのは、そういうことかも知れない。
先代がやっている俳句にしても、そうだ。
「俳句というのが、あまたある言葉の中から、韻を踏む形での語呂の良さである、五七五という文字数で、表現するわけだから、当然、制限はかなりかかっているよね。しかも、季語が必要であったり、その気後も多重の禁止、そして、その季節の句を詠むのを基本にしているのよね、そういう意味での文芸の世界は、文字数が少ないほど、テクニックが余計に必要なのかも知れないね」
と先代が言っていた。
先代が俳句をどうしてやりたいと思ったのか分からなかったので、一度聞いてみたことがあった。
「私は、本当は小説を書きたいと思ったんだけど、なかなか難しくてね。数行書いただけで挫折したんだ。そこで、それなら短い文章からどんどん長い文章にしていけば、段階を踏むことで、書けるようになるんじゃないかって、単純に考えたんだ」
という、