脳内アナフィラキシーショック
人間は、生まれることと、死ぬことは選べないと言われるが、ペットはさらに生きるための飼い主も選ぶことはできないのだ。
人間も親を選べない。そういう意味で、ロクでもない親の元に生まれた子供は悲惨である。そういう話を訊くと、
「かわいそうだ」
と言いながら、同情しているが、ではペットに対して自分たちがしていることは何なのだろう。
野良猫や野良犬が増えたのは、完全に人間の身勝手が産んだ現象だ。昔の戦後の混乱であれば仕方がないだろうが、そうでもなければ、エゴというしか他にないだろう。
人情としては、野良猫にも餌を挙げたいと思うのは、誰もがそうであろうが、住民生活が野良猫の被害に遭っているというのも事実である。それを無視して、
「かわいそうだから」
というのは、少し違う気がする。
警察官という立場では、決して餌やりを積極的に行ってはならない。せめて警察官であることを示さずに、餌をやっている人を黙ってみているくらいしかできない。本当は注意をするのが職務なのかも知れないが、直接的な職務ではないので黙って見守るしかないと思った。
張り紙を見ると、施行が令和三年となっている。まさに今年から施行の法律であった。昨年には、
「受動喫煙防止法」
が成立し、本当であれば、病院、学校などと同じくして、おととしからの施行だったはず。
それを、まるで、
「室内で吸えないんだったら、公園で吸うしかないじゃないか」
と、公園が病院。学校と同じ、
「公共の施設」
だということを認識していないようだ。
おととしから先行した行ったのも、この三つが重要だからであり、
「公園だったら、屋外なのでいい」
などというバカな解釈をする輩もいるということであろう。
それに比べれば、ネコを助けたいと思うことのどこが悪いというのだろう? 少なからず正義感の強い憤りを感じていたのだ。
その日は、時間に余裕があった、と言っても、いつも誰かと待ち合わせをしているわけではなく、週に何度か、絵画教室があり、毎日教室は開いているが、仕事の関係で来れる人、来れない人が出てきても仕方がないということで、自由参加になっていた。
昨日まで二日間通ったので、今日は一日休もうと決めていたので、公園でのんびりしようと思った。
今日はお腹が空いているわけではないので、ゆっくりと猫が現れるのを待っていた。
公園に行ってベンチに座って、前を見ていると、まだ猫が集まってくる雰囲気がないような気がして油断していると、腰かけてから少しして、
「ミャー」
という猫の申し訳なさそうな小さな声が響いた。
振り向くとそこには、丸くなった黒猫が一匹、こちらを見ていた。逃げるわけでも近づいてくるわけでもないその値を見ていると、下手に動いて脅かしてはいけないと思ったのだ。
こちらも、舌打ちをしながら、指でこっちにこいとばかりに人差し指をこちらに向ける形にしたが、最初の体勢からまったく崩すことなく、こちらを見ているだけだった。
少しの間にらめっこが続いていたが、根負けをしたのはこちらの方だった。笑顔を見せて少し近づいたが、別に逃げようとはしなかった。相変わらず、
「ミャー」
と鳴くだけだが、どうもお腹が空いているわけでもなさそうだ。
警戒しながらでもこちらを見ているのは、本当は構ってほしいのだが、大丈夫な相手なのかを見逃さないようにしているのだろう。
ネコというものの本性がどれだけ人間の本質を捉えているか分からないが、あまり考えていないように見えるのは、自由奔放なイメージに左右されてしまうからだろうか。
愛想がよく見えるが、どこか食えないところがあるのが猫だというが、人間もそうだろうが一人として同じ人間はいないということである。
指紋が一致しないのと同じで、似ているとしても、まったく違う性格なのであろうということは想像がつく。人間にとって猫が少しでも似ていれば見分けがつかないのと同じで、ネコにとっても、人間と見分けがつかないと思えるのではないかと感じるのだった。
イヌであれば、臭いで分かるはずだが、ネコは何で人間を分かるのだろう。慣れた人間でれば、分かるというよりも、一度でも餌を挙げた人の顔はネコ派忘れていないようだ。そういう意味で、ネコの記憶力は、人間よりもすごいのではないだろうか。人間は思考するというのだが、イヌやネコ派、本能だというのだろう。
気が付けば西日はビルの影に隠れてしまって、それまで徐々だった暗がりが、急激に視界を狭めていく。何と言っても相手はクロネコ。そのうちに身体の形が分からなくなるだろう。
人間の視覚というものは、目の前のものをじっと見ていれば、目が慣れてくるのは、焦点い合った部分以外は、どんどん薄暗くなっていくもののようだ。きっと全体的に暗くなっているものを、少なくとも焦点が合っている部分だけでもハッキリ見えておきたいという意識が働くのか、瞳孔が一点に焦点が集まるかのように無意識に動作するようにできているのであろう。
そう思って猫を見ていると、最初に感じた猫の輪郭を残像として残しておいたことで、まわりはすでに真っ暗に見えているにも関わらず、ネコがいるあたりは明るくはないが、薄っすらと輪郭がぼやけて見えるようであった。
こちらはほとんど動いていないはずであり、ちょっとでも微動だにすれば、自分自身、かなり動いたような感覚になるはずで、固まってしまった自分の身体は、すでに硬直状態だった。そのうちに、どうも猫がその場から立ち去ろうと、身体を傾けようとしているのが分かったが。どうしても動かすことができないようで、まるで、その様子は金縛りにでも遭った科のようだった。
ネコに金縛りというのは訊いたことがない。ただ、ネコも猪突猛進なので、急に道に飛び出してくることもあったりする。
イヌの場合は反射的に身体が動いて避けることができるのだろうが、ネコの場合は身体を動かせずにその場で硬直してしまうようだ。
だから、動物のひき逃げはネコの方が多いのではないか? だた、イヌもよけようとして失敗することもあるので、一概には言えないか……。
ただ、ネコはその場で硬直してしまう。それを人間が分かっているので、反射的に逃げるのかも知れない。
目の前のネコは何に怯えているというのか、明らかに自分にではない。自分の後ろに何か猫にとって怖い物でも見ているのかも知れない。
「イヌは飼いやすいが、ネコはちょっとね」
という人が多いのも事実だった。
イヌとネコでの一番の違いは、
「イヌは人につき、ネコは家につく」
ということである。
つまりは、イヌは人間につくので、飼い主が引っ越してしまうと、飼い主を追いかけて行ってしまうが、ネコは人ではなく家につくので、その家で買主が違っても、今までの飼い主を追いかけることをせず、もし、しばらく空き家になっても、飼い主を追いかけようとはせず、家の近くで、野良猫になるのだろうと言われる。実際にどうなのだろうかと調べたことがあったが、どうやら、イヌが人につくのは本当だが、ネコが家につくというのは、少しニュアンスが違っているようだ。
家につくというニュアンスは、元々額面通りの「家」ということではない。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次