脳内アナフィラキシーショック
他にも山岸に騙された女性もたくさんいるのだが、彼女たちにはすべてアリバイがあるということであった。
そこまで分かっているようだったが、一番怪しいと思われる女性を発見するまではすぐだったのに、そこから一歩も前に進まないというのは、これほど苛立たしいことはない。確かに山岸という男は殺されても仕方のない人物ではあり、それも分かり切っている高杉であったが、どうにも、この事件に対しての苛立ちが身体から湧き出してくるようで仕方がなかった。
それは、門倉刑事の苛立ちとは違うところから来ているようで、何かが見えてくるような気はしていたが、今の段階では、
「苛立ちを感じる」
という程度で、それ以上のものはなかった。
「これ以上は、捜査会議に出席して、実際に事件に入り込んでみなと分からないことではないか」
と思ったが、この事件をいかに考えるかということはこれからの問題だった。
高杉にとってこれから何をすべきかというのは、そこからである。
時間がある限り、捜査をまとめた資料を何度も読み返したが、そのたびに何かがこみあげてくる気がするのだが、どこから来る思いなのか分からなかった。
そのうちに、どこからか臭いがしてくるのを感じた。
「ヤバい」
と感じたのは、その臭いがホルマリンの臭いだったからだ。
――そのうちに、酢の臭いがしてきて、さらにはアンモニアを感じるようになるんだろうな――
と感じたのだ。
「それでは、捜査会議を始めます」
という声が聞こえてきた。
高杉は、ビックリした。というのは、さっきまで、刑事課の部屋にいたはずなのに、臭いを三つ嗅いだと思い、気が遠くなるのではないかと思ったその瞬間に、遠くの方から、捜査会議を始めるという声が聞こえ、そして目を開けてみると、そこは捜査本部であり、まわりの刑事は粛々とした緊張感に包まれ、真剣な顔で正面を見ている。
正面には、門倉刑事と本部長が座っていて、まわりを見渡していた。
「それでは、それ以降の情報を教えてください:
ということで、手を挙げたのは、辰巳刑事だった。
「被害者に対して一番の容疑を持っている中村綾香という女性は、あれから田舎に帰ったようです。田舎に戻ったのは、姉の墓参りが目的で、尾行していた刑事の報告では、姉の墓前で山岸が殺されたことを、憎しみを込めた笑いで話していたということです。まるで妖怪のようだったというほどに苦み走った顔だったと想像できます」
と報告した。
「アリバイの方は?」
と訊かれて、
「ええ、やはり鉄壁で、一緒にいたという人も、少ししてから、コンビニの防犯カメラに映っているんですよ。二人が一緒にいたというカラオケ店の防犯カメラも疑いようもなく、そういう意味では彼女が山岸を殺害するのは不可能ですね」
という報告で、
「じゃあ、他の容疑者は?」
と訊かれて、桜井刑事が立ち上がり、
「他の容疑者も同じことでした。誰も被害者を殺害できるところにはいませんでした。そしてやつが殺された廃工場にお、容疑者の痕跡は一切ありません。被害者の痕跡は至るところに残っているのにですね。それだけ周到に計画された犯行なので、結構手間のかかったと思います。そうなると、時間的に、他の人にも犯行は無理ですね」
ということで、八方ふさがりのようだった。
「じゃあ、新しい発見はなかったと?」
と言われて、
「被害者が廃工場に入って行く時、後ろからその様子を伺っている人がいるようなんです。ただ、それが誰なのか分からない状態だったので、怪しいといえば怪しいですね」
ということだった。
さらに、
「被害者と直接関係があるというわけではないんですが、容疑者の一人である中村綾香が最近、誰かと付き合っているという話を訊きこんだのですが、どうやら彼女は姉が騙されてから、一時期、男性恐怖症になっていたらしいのですが、そんな彼女がいきなり男性と付き合い出したというのもおかしいですよね」
という話も出た。
「その男の身元は分かっているのかね?」
と訊かれて、
「いいえ、今のところはハッキリとはしまぜん」
という報告を受けると、辰巳刑事が、
「その件なんですが、田舎に帰った中村綾香が、最近少し何かに怖がっているという話を訊いたりもしたんです。そして、彼女の家の近くの交番で、最近ストーカーに追われている気がするのよと、漏らしていたというんですね。今の話を訊く前は、別に深くは考えてなかったんですが、彼女に誰か付き合っている男性がいるとすれば、その話もまんざらでもないような気がしてきましたね」
と、辰巳刑事が言った。
その話を訊きながら、高杉はじっと黙って下を向いていた。目を瞑って、捜査本部の状況を想像しているようだったが、今までになかったかのような状況が、瞼の裏に浮かんでくるのを感じた。
今までであれば、瞼の裏というと、赤褐色の光が通り抜けたような背景に、何もイメージが浮かんでこなかったのだが、今は真っ黒い、まるで暗黒の世界で目を開けているかのような世界が浮かんでくるのだが、話を訊いているうちに、次第に明るくなってくるのを感じた。先ほどのような三すくみの臭いが鼻をついているのを感じた。
「アンモニア、酢、そしてホルマリン」
順番は、いつものものだった。
すると、またしても、臭いがなくなっていき、まったくの無臭になったのを感じた。
目の前に浮かんだ光景は、十分に色を判断できるくらいの明るさになっていて、その明るさが、今までに逢ったことのないはずの人を、シルエットで浮かび上がらせていた。
そこにいるのは、女だった。それが問題の中村綾香であることは、自分の意識がそう言っていることで、疑いようがなかった。その女を見つめている男がいる。その男は、間違いなく見覚えがあり、そう、この間殺されたチンピラの山岸だった。
山岸は、明らかに中村綾香を見張っている。もし、何かあれば、遅そうという意識だ。ただ、それは性欲によるものではなく、その様子は、
「隙あらば、殺してしまおう」
という意志だった。
つまりは、殺された男が、自分に恨みのある女を殺そうと狙っている姿だった。だが、その光景には続きがあった。
続きというよりも、そんな二人をさらに後ろから見ている人がいるということである。しかも、綾香はその後ろの人間に、山岸が気付かないように近づいてくる。そこで、鼻と口に何か布のようなもので覆って、男が暴れはしたが、すぐに意識が遠のいているようだった。
どうやら、麻酔剤であろう。それを高杉は、ホルマリンだと思った。すると、二人はそのまま男を縛り上げ、ニンマリと笑っている。女は最後に現れた、山岸を意識不明にした男に対して、そのご褒美とばかりに、身体を捧げる、汗臭い臭いが部屋に充満し、その時に感じたのが、酸っぱい臭いであった。
さらに、二人が部屋から男を廃工場に運ぶために、車に乗せた。そこから彼女は自分のアリバイを作るためにすぐに別の場所にいき、男は山岸を意識不明のまま、廃工場へと連れていった。
その廃工場では、アンモニアの臭いがしている。その臭いに刺激されたのか男が起き上がった。
「ここはどこだ?」
とチンピラは慌てる。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次