脳内アナフィラキシーショック
「人間というのはね、怪我をした時には血が出てくるでしょう? その血はいつの間にか、かさぶたができて、血が止まっているでよね? あれは自分の中で怪我を治そうとする力があるからなんだよ。それに、風邪ひいたりした時、熱が出たりするだろう? あれだって、風邪が熱を出ささせているわけではないんだ。人間の身体の中にある力が、風邪を抑えようとして風邪と戦っているから、熱は出るんだよ。だから熱が出た時って、本当はすぐに冷やしては本当はいけないんだ。さすがに四十度近くなると危ないけど、三十八度台くらいまでであったら、熱が上がり切るまで上げた方がいいんだよ。たぶんその間には汗がほとんどでないと思うんだ。汗が出ないから、身体に熱が籠ってしまうので、どんどん熱がでる。でも、その熱が上がり切ってしまうと、今度は汗とともに、風邪の悪い菌が一緒に出てくるんだ。その時に一気に冷やすようにして。着替えを何度もして、身体から汗と毒素を追い出すんだよ。だから、そこから少々でも熱が下がれば身体がスーっとして、楽になってくるんだ」
と先生が教えてくれた。
「へぇ、そうなんだ・知らなかった」
というと。
「それでね、人間には毒牙入ってくるとそれを追い出すための血がらが働くし、一度身体にその毒が入ると人間の身体は学習して、今度はその毒が入ってきても大丈夫なように、バリアを貼るんだ。そのバリアを抗体というんだけどね。免疫と言えば分かりやすいかな? 覚えておくといい。それでね、他の病気であれば、その抗体は反応してくれて、最初ほどひどくならなかったり、身体を壊す前に撃退してくれたりするんだよ。はしかやおたふくかぜのような病気は、一度掛かれば、二度と掛からないと言われているだろう? それと同じことなんだよ。でもね、ハチの毒というのは少し違うんだ。一度刺されると、同じように人間は抗体を作るんだけど、もう一度刺されると、人間は他の病気と同じように毒を撃退しようと、その抗体が反応して追い出そうとするんだ。でもね、ハチの毒というのはそんなに簡単なものではなくて、何とせっかく作った抗体と反応して、アレルギーを引き起こすんだよ。それが原因で人間はショック死することになる。それをいわゆるアナフィラキシーショックっていうんだ。このショックは酷い時には命を失う。だから、ハチに二度刺されると、二度目には死んでしまうというのは、このことなんだよ」
と説明してくれた。
「なるほど、よくわかった気がするわ」
と言ったが、さすがにその時はどこまで分かっていたか、自分でも自信がないが、話をしているうちに、
「じゃあ、人間はハチの毒で死ぬんじゃなくって、アレルギーによるショックで死ぬっていうことなんだね?」
というと、
「うんうん、そういうことだよ」
と先生は嬉しそうに言った。
言われてみれば当たり前のことを説明してもらって、それを反復しただけのことなのに、先生がここまで寄るこぶということは、それだけ難しい話であり、話の中で一番どこが重要な部分かということを分かってもれていないということであろうか?
それなのに、高杉少年が何の気なしにいった言葉が的を得ていたことが、よほどうれしかったのだろう。
高杉少年にとって、アナフィラキシーショックという言葉は、子供心に言葉が難しいだけに、
「覚えたら恰好いいだろうな?」
と思い、ずっと口ずさんでいたことで、この話を思い出したら。すぐに出てくるようになった言葉だったのだ。
最終日の検査では、
「いよいよ今日が最終の検査となります。今までにも何度か気を失うような形で検査を行ったまいりましたけど、今回も気を失うかも知れませんが、今回の検査では、あなたの中に意識として残ることになるかも知れません。別にそれで何かの変調があるというわけではありませんが、そのつもりでいてくださいね」
ということを看護婦から言われた。
ここまで来て、いまさら拒絶する気もなく、先生の検査に従うだけだったが、最初の看護婦のその言葉は少し気になっていた。
なるほど、検査を受けて、次第に気が遠くなっていく。これは昨日までと同じで、看護婦の声に快感を覚えながら、まるでエクスタシーの波を超えるかのように、夢の世界に飛び込んでいくのであった。
だが、今回はこれまでと違って無臭であった。アンモニアの臭いも、酢の臭いも、さらにはホルマリンの臭いもしない。ただ、看護婦の声だけで広がっていくエクスタシーの世界であり、臭いがないことに却って違和感があったが、快感というものがどこに繋がっていくのか、追いかけたい気分になっていくのだった。
これまでの治療で気を失った時に見ていた夢は、時系列に沿った形での過去から気になっていたことを夢に見るという形だった。忘れていた内容を思い出されるものもあったくらいで、まず最初の日に見たのは、あのハチに刺された日の記憶だった。
ハチに刺された時の夢は、今までにも何度か見たことがあった。その都度、
「ハチに刺された夢」
という意識を持って覚えてはいたのだが、日にちが経っていくうちに、その夢の記憶というよりも、夢を見たという事実自体が意識から曖昧な記憶に変わりつつあったのだ。
夢の内容は忘れるわけではなかった。日が経つにつれても色褪せない記憶に、却ってその夢を見たのがいつだったのか、それが曖昧になってくるのだった。
つまりは、記憶が鮮明なせいで、それ以外の部分の意識が曖昧になってくる。こういうことって実際にあるのだろうか?
一体その夢を見たのがいつだったのか。昨日だったのか一か月前だったのか、それとも一年前だったのか、過去であることに間違いはないという当たり前のことしか意識として分からないというほど、曖昧を通り越して、当たり前のことですら、曖昧だとしか思えないくらいになっていた。
そのことを、一日目の意識あなくなったその日に先生に言ってみると、
「高杉さんが、その意識を持ったのは、私にとっては成功なんです。一日目はあなたが本当に意識してしまった原点を見せる夢だったんですよ。だからこれから幾度か意識が遠のくような検査を行いまずが、それは過去からどんどん時系列で経過することで、最後に見る意識不明の中での意識は、本当に過去なのかということですね」
という意味不明の話をしていた。
「どういうことでしょうか?」
と聞いてみると、
「先ほど見たあなたの夢は、あなたがウスウス自覚しているかも知れない能力を、自分でも意識できるようになるための、準備段階にしか過ぎません。しかもそれは、あなたに自覚を促すもので、もちろん最初は私が指摘しなければ、分かるはずのないことなんですよ」
というではないか。
「じゃあ、私がこの話をするのも想定されていたということですか?」
と高杉が効くと、
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次