脳内アナフィラキシーショック
あの時は友達が何を言っているのか分からず、
「どういう意味だい?」
と聞き返したが、今から思えばその言葉を訊いて、一瞬にしてその意味を理解できていなければ、理解することはそれ以降できるはずはないと感じたということを、忘れてしまっているのだ。
だが、今回の夢でそのことを思い出した。
きっとその時はすぐに忘れてしまう運命だったのだろうが、もし未来において、偶然か必然か、思い出すことができたとすれば、その理由が分かる時なのかも知れないと思った。
今夢から覚めたと思った時、まだ目が覚めていないという途中の段階を感じた時、必然だか偶然だかが起こってしまったのだろう。
まさしく、ロシアの土産物として有名な、
「マトリョーシカ人形」
人形の形の蓋を開けると、その中には少し小さな同じ人形が入っていて、さらにその中にまた同じ人形が入っているという、どんどん小さくなっていく人形を横に並べてみることを楽しみにするという子供心、それが、マトリョーシカであるが、その精神は人形だけではなく、人間の中の感情の中にもあるものであり、どんどん蓋を開けていくと、そこに佇んでいるものは、一体なんであろうか?
それを別の意識で考えると、
「前と後ろに鏡を置いた時、その先にはどんどん小さくなっていく自分が永遠に見えている」
という感覚に陥ったことがあった。
まるでマトリョーシカと同じだが、この時、マトリョーシカに感じた一番の疑問がこの鏡でも同じことの言えるということにすぐに気付いた。
それは何かというと、
「どんどん小さくなっていき、半永久的に続いているのに、最後には消えてなくならないのだろうか?」
という思いである。
その時、高杉は、もう一つ似たような発想を思い浮かべた。
それは数学の発想で、
「ある整数に対して、どんな数字で割ったとしても、絶対にゼロになることはない」
というものであった。
いくら一を数百億で割ったとしても、絶対にゼロにはならない。これは小学生にだって分かることではないか。
しかし、そうは思っても、そのことに誰が疑問を感じるだろうか?
「あらたまって考えると、これほど不思議なことはない」
と感じることが、この世の中にどれほど多いというのかを考えてみると、実に面白い。
例えば、前述の鑑ではないが、
「左右は対称に見えるのに、上下はどうして逆さまにならないのか?」
という疑問である。
最初、高杉は、
「左右に見えるのが当たり前で、どうして上下が同じなのか?」
ということを疑問に思ったのだったが。他の人に話すと、まったく逆の発想で、
「何言ってるんだよ。上下がそのままなのは当たり前じゃないか。左右が逆に見える方が不思議な感覚なんだよ」
と言っていた。
要するに、感覚の違いが錯覚を呼び、どちらが正しいのかと考えるべきか、事実は別にあり、どっちもおかしいという考え、さらには、見え方が違っていることが悪いというわけではなく、どちらも正解だという考えもある。
つまり、
「考え方が自由にあるように、感じ方だって、人それぞれでいいではないか」
という発想である。
だが、ある程度までは共通していないと、それぞれが勝手な行動を起こしてしまい、秩序が守られなければ、同じ空間で生きていくことはできないと言えるのではないだろうか。それを思うと、
「信号機を守らないとどうなるか?」
というところまで落とした発想になってしまう。
錯覚と潜在意識の違いをいかに説明できるかということから、話は始まっていくのではないかと思うのだった。
前述の鑑の話ではないが、上下左右の鑑に写ったものの違和感という意味で説明している話を訊いたことがあったが、その人の意見としては、
「上下というものほど、意識が強く持たれていて、左右に関しては結構曖昧だ」
という発想であった。
その発想がどこから由来するのかというと、それは重力という観点からであった。
「重力があるのだから。上から下に対してモノが落ちるのは当たり前で、左右に関しては反対に見えることに違和感はあっても、上下が逆さまに見えるほどではない」
という感覚であった。
「だからどうした?」
というところまでは理解できなかったが、違和感があることであっても、別の媒体によって説明できることであれば、違和感も少しは解消できるのではないかと言いたいのではないかと勝手に想像していたりした。
看護婦が注射を打ちながら、意識が朦朧としてくる中で、よくそこまで考えられたものだと感じたが、そもそもいつも何も考えていないように自分で感じている時以外は、必ず何かを考えているという感覚に陥っている。
つまりは、
「少ないと思っていることも、結構多かったりするが、実はその反対がもっとたくさんであることを知る」
という意識である。
平たくいうと、例えば、水平線の見える砂浜に佇んでいる時、その状態を目に焼き付けておいて、今度は、天橋立で見るように股を開いて、その間から同じ景色を見た時に、どう感じるか? というのと似ているのだ。
上が下になって、下が上になる。そのため、それまでそんなに広くはない、空と海と陸を三等分したかのように見えていたはずの光景では、一番下にある空が、その光景のほとんどを占めているかのような錯覚に陥ってしまう。
これは前述の鑑の上下で反転しないという感覚とは逆であることを思い出させるものだ。そう考えると、やはり上下で同じに見えてしまう感覚というのは、やはり違和感があるはずなのだ。
「違和感がない」
と言った友達も本当は違和感を感じているが、左右の違和感の方が強すぎて、こちらに違和感を感じていないだけなのかも知れない。
そういえば、先生がハチに刺された時に、注意してくれたことを思い出した。あの時には何を言っているのかよく分からなかったが、最近では、ワクチンの副反応という見地からよく耳にするようになった言葉であるが、
「アナフィラキシーショック」
というものがある。
先生の話として、
「ハチに刺されると、一度では死なないけど、二度差すと死ぬという言葉があるんだけどね、あれは大げさではあるんだけど、実際に死んだりする人のいるから気を付けなければいけないんだ」
と先生が言った。
「どうしてなの?」
と聞くと、
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次