脳内アナフィラキシーショック
今回はホルマリンからだと今感じているということは、完全に意識をまだ失っているわけではない。それがこの間の時との違いだろうか?
「ん? ということは、順番は違うがあの時、この臭いを感じたということか? それは先生以外にもこの臭いを所持している人がいるということなのか、まさかあの場所に先生がいたというわけでもあるまい」
と、混乱する頭の中でいろいろと発想してみた。
しかし、どこまでが自分の意識のうちなのか分からずに、きっといつの間にか眠ってしまうのだろうと思っていると、一気に臭いを感じなくなると、身体が宙に浮いたように楽になり、
「このまま眠りに堕ちていくんだな」
と感じたのだった。
夢というのは、
「潜在意識がなせる業であり、夢から覚めていくにしたがって忘れていくものだ」
という思いを抱いたまま、今まさに自分が夢の真っ只中にいることが分かった。
この間、潜在的な意識と記憶を感じたが、記憶の方は自分が意識するしないに関わらずに持っているものだという感覚だったが、潜在意識の場合は、自分が意識していないところで意識しているものなのだろうか。
どちらにしても、意識してできるものではなく、本能によるものなのかがどこかで働いているのかも知れない。
そういう意味で、夢というものを、自分ではどうすることもできないものであり、勝手に見てしまうものであり、しかも、勝手に忘れてしまうから厄介でもあった。
夢を見たことすら忘れてくれていればいいものを、楽しい夢などは、おぼろげに頭の中に残ってしまっているから、完全に忘れることができず、まるで残像のように残ってしまっている。
起きている時にもそのような感覚というのはあるのではないか?
眠っている時と同じように、確かに意識がしっかりしている時に、ふと記憶が昔に戻っていることがある。しかし一人の人間がハッキリしている意識の中で二つのことを同時に意識することはできない。できているかのように重いのは、ものすごいスピードで意識が展開されているからなのか、それとも意識を展開を感じることができないように人間ができてるからなのかではないだろうか。
昔の無線機のように、こちらから話をしている時は相手からは何も聞こえず、相手が話している時にこちらが何を言っても、向こうは分からないというような感じのものではないだろうか。
だが、意識として残っているものが、何かの残像のようなものであったとすれば、同時に存在できるかも知れない。その残像が夢だったのだとすれば、決して夢を忘れてしまっているわけではない。結界ほど完璧なガードではないベールのように、風が吹けば少しは向こうが見えてくるというそんなものであれば、意識と記憶、さらに意識と本能、そして夢と現実という感覚に風穴を掛けられるのではないか? という考えが、薄っすらと意識が遠のく中で感じられた。
そういえば、点滴を打ちながら、看護婦さんが、優しい声で、
「意識が薄れていく時に、何を考えるか、それが大切なのよ」
と言っていたのを思い出した。
その声は優しく高杉を包み込んでくれているようだった。
高杉は、意識が遠のいていく中で、大学生になってから付き合った女の子のことを思い出していた。今の看護婦さんの声のように、優しく包み込んでくれるような声だった。
「この声を聴いていれば、意識も失うわ」
と思うと、点滴を打っているから意識を失いかけているわけではなく、それよりも看護婦さんの声に自分の意識を吸い取られているかのように感じるくらいになっていた。
看護婦さんの声はそれほど甘くとろけるような声で、しかも、かつてその声に覚えがあるだけに、薄れ始めた意識を、どうすることもできなかった。
夢というのは、潜在意識が見せるものだからこそ、自分に経験したこと以外を見ることはできないともいえる。そういえば、覚えている夢のほとんどは、過去に感じたことで怖かった思い出を夢に見ているのがほとんどだった。怖くないが、印象に深く刻まれているかのような思い出は夢に残っているのか、残像になっていた。
自分の意識は大学時代に戻っていたが、やたらとリアルに感じられるのは、その夢に友達が何人も出てきたからだった。
だが、出てきた友達は皆今の自分であり、大学生の自分に対して、対等には接してくれない。完全に上から目線で、今の自分であれば、懐かしいと思うのだろうが、夢の中の自分は友達のリアルさに恐怖を感じていた。
そして、付き合っていた彼女が目の前に現れる。彼女だけは自分と同じ大学生で、その瞬間、二人は大学時代に戻っていた。だが、大学時代に戻った甘い時間を過ごしている自分を見ていると、どうしても他人事にしか思えない。
「ああ、俺はもう大学を卒業しているんだ」
と思うと、目の前に見えている二人の影が次第に薄れていくのを感じた。
「ここから夢が覚めていくんだな」
と感じると、
「夢というのは、限界があり、その限界に向かってゆっくり進んでいるように見えるけど、気が付けばあっという間にその結界まできていて、結界を超えると今度は一気に目を覚ますところまできてしまう。目の覚め方はゆっくりではなく、一気に覚めてしまうところが夢の夢たるゆえんではないか?」
と感じるのだった。
この時は、夢から覚めていくという意識はあった。
しかし、普段のように、
「覚めないでくれ」
という思いはない。
覚めないでほしいという意識を持っている時は目が完全に覚めると、見ていた夢を忘れてしまうという意識だったが、今回の夢は覚めないでほしいと思わなかったわりには、夢を覚えているわけではない。夢の内容は覚えていないが、意識だけが残っているのだ。それが登場人物が今と同じか、夢を見ている自分と同じなのかというような形式的な感覚だけであった。
そういう意味で、感情が思い出せない。
そう考えてみると、夢を見て、怖い夢しか覚えていないという感覚は、
「怖い夢というのが、意識的に覚えているというよりも、夢のインパクトが強すぎて、忘れさせてくれないと言った方がいいのかも知れない」
つまりは、
「覚えているわけではなくて、怖くて忘れられない」
ということである。
覚えているということが、自発的な意思であれば、忘れられないというのは、受動的な感覚としてのものであり、それを、
「意識に対しての潜在意識と呼ぶのではないだろうか?」
と感じるのだった。
意識というのは意志に対して、自分が発信して行う行動ではない。しかも、潜在意識はその意識からさらに、感覚すらないということではないかと、高杉刑事は感じるようになっていた。
ふと、今度は自分が刑事であるという意識がよみがえってきた。
どうして刑事になろうと思ったのか?
忘れるはずもないことを、思い出そうとして、なぜか思い出せなかった。
「まだ夢の中にいるのだろうか?」
覚めたと思っていた目は覚めたわけではなく、夢の世界から抜けただけであって、完全に目を覚ましたわけではないと思うと、どこか納得できる自分がいた。
「夢なんて、まるでマトリョーシカのようではないか?」
と大学時代の友達が言っていたのを思い出した。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次