脳内アナフィラキシーショック
刑事課を出る時は確かに、あの時を今日だという意識はあったはずなのに、警察署の入り口を出る時は、日付の意識はなかった。
「ということは、あの時点で、すでに意識は上の空だったということか?」
高杉には、そういうことは今までにも結構あった。一人でいる時は特にそうで、考え事をしている時など、いつの間にその場所を通ったのか意識になく、誰かと待ち合わせをしていても、何かを考えていると行き過ぎてしまって、呼び止められることで、やっと約束していたことを思い出すほどだ。
呼び止められてしまったせいで、その時何を考えていたのか忘れてしまうことが往々にしてあった。それは、目が覚めたことでその時まで見ていた夢を思い出せない時に似ている。
夢は覚えていないのが当たり前だと思うので、仕方がないが、呼び止められさえしなければ忘れることもなかったと、呼び止めた人を気付かなかった自分が悪いにも関わらず、恨んだりした。
だが、今回は誰から呼び止められたわけでもない。それなのに意識が朦朧としているのは、ひょっとすると死体を発見したというあの時に自分の意識が一度リセットされたのではないかと思った。
だが、確かに意識がリセットされたという思いに間違いはないと思うのだが、その瞬間が本当に死体を発見した瞬間だったのかということである。
確かに死体を発見したという場面ではあるかも知れないが、あの瞬間だというのは果たしてそうだろうか?
「あの時、俺は気を失ったじゃないか。その時に意識がリセットされたんはないか?」
とも感じた。
気を失ってから、すぐに意識が戻ったという、
「?字回復」
がもたらした意識は、リセットだったのかも知れないと思うのは間違っているのだろうか?
今はそこまで先生に話をしていないが、明日からの検査の中で、次第にあらわになっていくかも知れない。
自分の中で潜在的に記憶しているのではないかと思えるようなことも、先生に掛かったら、どんどん思い出してくるかも知れない。
そんなことを感じていると、
「潜在しているのは、意識だけではなく、記憶にも潜在的なものがあるのかも知れない」
と感じた。
これは後で知ったことだが、記憶には潜在記憶と顕在記憶というものがあるらしい。顕在意識とは、思い出そうとして思います記憶のことであり、潜在記憶とは、自分の意志とは関係なく思い出してしまうという、まるで本能的に思い出すという種類のものらしい。
潜在記憶というのは、その人が本能的に無意識にやっていることは、身体が覚えているというような表現で言われるように、記憶していなくても、勝手にできるというようなものであろう。
例えば自転車に乗ったり、キーボードの位置を覚えていて、ブラインドタッチができるというようなものである。
ひょっとすると、デジャブや既視感などと言われるものも、潜在的に記憶しているものが出てきていると言えるかも知れない。一度ゆっくりと先生とそのことについて話をしてみたいものであった。
そんなことを考えていると、時間が経つのは早いもので、その日のうちから入院となったので、あっという間に就寝時間になっていた。普段であれば、気が立ってしまっていて、眠れるわけはないと思うのだが、今日はいろいろありすぎた。
仕事ではそれほど大きな変化はなかったが、死体の第一発見者になってしまったり、身体に変調をきたし、入院と精密検査を勧告されたりと、想像もしていなかったことが起こってしまった。
だが、ふと思うと、本当に想像もしていなかったことだろうか? 死体を発見したのも、ここで入院を余儀なくされたことも、今日のどこかの瞬間で自分には分かっていたことではないかと思ったことだった。
高杉は以前にもこの病院で入院をしたことがあった。
あれは中学時代だっただろうか。精神に異常をきたしたのではないかと自分で思い込んでしまった時期があった。
「先生、本来そこにあるはずのないものが見えてしまうんです」
というと、
「それは、幻覚なのか、錯視なのかということによるでしょうね」
と言われた。
高杉少年が黙っていると先生はニコリと笑って話を続けた。
「幻覚というのは、本来であればそこにあるはずのない、見えるはずのないものが見えてしまうという感覚で、錯視というのは、いわゆる見間違いのことですね。どちらも、思い込みから来ている場合もあるということでしょうか?」
と言われた。
「ということは、結果的に見えてしまったことは、自分が過剰に意識しているせいだということでしょうか?」
と高杉少年がいうと、
「君はなかなか鋭いところをついてくるね。それは日頃からそのことを意識していないとそう簡単に口からついて出る言葉ではないだろう。そういう意味で、君は絶えず何かを考えるタイプの人間なんだろうね。だから、考えすぎて、次第に意識がマヒしてくる。だから、今何かを考えているにも関わらず、それに気づかないので、さらに何かを考えようとするから意識が混乱してしまう。それでも見間違えたり、そこにないものをあるのだという意識が働くんじゃないかな?」
と先生は言った。
「じゃあ、意識しすぎということでしょうか?」
と高杉がいうと、
「そうとも一概にはいいにくい。問題は感覚がマヒしてしまうことで、大体の場合、感覚が無意識にマヒするというのは、嫌なことをしている時が多いと思われるので、君の場合は、考えること自体が嫌なのか、それとも無意識に考えていることというのが、ほとんど嫌なことなのかのどちらかではないかと思うよ」
と先生は言ったが、
「じゃあ、嫌なことを無意識に考えているという後者ではないかと思うんです」
それを訊いた先生は興味深げに、ただ語調は少し重めに、
「根拠は?」
と聞いてきた。
「根拠は夢に由来すると思うんですが、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものじゃないですか。でも、覚えている夢も多いんです。それはほとんどがあまり覚えていたくない怖い夢が多いんですよ。実際に夢は怖い夢しか見ていないんじゃないかって思ったこともあったんですが、それはちょっと違う気がするんです。というのは、夢を忘れるという感覚があるからです。忘れるということは元があって忘れるということであって、最初から存在しないものを忘れるというわけはないですからね。実際に夢というのは実態のないものだと思うので、忘れるという感覚は夢を見ていた証拠であり、あとから思うと、忘れたくないと思っている夢に限って覚えていないんじゃないかっていう感覚に陥るんですよね」
と、高杉はいうのだった。
作品名:脳内アナフィラキシーショック 作家名:森本晃次